小説 川崎サイト

 

磨かぬ鏡

川崎ゆきお



 見えにくい。曇っており、霞んでいる。高島は鞄からティッシュを取り出した。拭き取れるものはそれしかなかった。これは磨くとは言わないが、そのティッシュで眼鏡を拭いた。そしてかけ直すと視界良好天気晴朗の風景に変わった。
「磨かぬ鏡」とう話を子供の頃、高島は聞いたことがある。読んだのかもしれない。学校の教科書で。
 これは教訓だろう。それを国語の先生が導き出そうとしていた。磨けばよく見えると言うことだ。
 これを心身に当てはめようとしていた。身も心も磨きなさいと。
 高島はこの「磨かぬ鏡」と何度も遭遇した記憶がある。道徳のような授業のときもそうだし、誰かの説教的な話の中にも出てきた。本の中にも出てきている。
 鏡が玉になったりもする。また、宝石にも。ただ、石はいくら磨いても、石のままで、それほど値打ちは付かない。
 技を磨くもそうだ。芸を磨くも。研磨工やガラス磨きの人は、毎日磨いているだろうが、自分自身を磨いているわけではない。しかし、その技術は日々創意工夫がなされ、磨かれていくのだろう。
「さて僕だ」高島は、何を磨けばいいのかを探り出した。確かに今、眼鏡を磨くとよく見えるようになった。このパフォーマンスは見事で、磨く前と後では、これだけ見え方が違う。
 その眼鏡を買った直前は、こんな見え方をしていたのだろう。たまに磨くというか拭くが、今日のように見えにくくなってからの話だ。不都合でなければ、磨かない。
 高島はこの体験から、それを高島自身を自分で磨くことで、より良くなるのではないかと考えた。やはり実感の効果は高い。だからといって風呂で体をよく磨くということではない。
 しかし、高島はついついそちらに話を持っていく癖がある。なぜなら精進とか、自分自身を鍛えるとかが気恥ずかしいのだ。別にそんなことをしてまで得たいと思うようなものはない。
「自分を高める」これも、高島はしんどいと思う。高めるのなら、ずっと高め続けないといけないだろう。これは忙しいし、それに作意が過ぎる。だから、ここで丸見えになり、恥ずかしい。
 そんなことをしなくても、やっているうちに自然に高まることがあるはずだ。
 これは自分自身を磨くことが目的になり、磨くために磨くことになる。やはり、餌がないと駄目だ。良いことがあるので、磨くのだろう。
 眼鏡を磨いた後、高島は自分自身をも磨こうと考えたが、やはりやめた。
 ここに何か胡散臭い罠、トラップを感じたからだ。
 そして、高島はずっと磨かぬ鏡のままでもかまわないとは思わないが、無理に磨くことはないと、結論し、この問題を交わした。
 
   了
 

 
 


2014年4月25日

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