小説 川崎サイト

 

マレーの虎

川崎ゆきお



「何処まで話しましたかなあ」
「いや、まだ何も聞いていませんが」
「そうか、別の人に途中まで話したんだ。話の途中で、もう聞くのをやめよったから、それ以上話してはおらん」
「最初からお願いします」
「走るんだなあ、これが。そして夜に限る」
「途中からですね」
「途中から走るんじゃないよ」
「話の」
「ああ、最初か、最初はねえ、火事だ」
「はい」
「消防車が町内を貫いておる道路を走れば、一発だ」
「一発?」
「ゴーサインの一発だ」
「はい」
「冬場なら二階の雨戸やガラス戸が開く音がする。二階屋がある家に限るがね。火の見櫓もあるが、上るより二階から空を見た方が早い」
「いつの時代ですか」
「まだマンションなどが建っておらん時代じゃ。駅前に出ないと、ビルなんて建っておらん。二階屋が高かった時代じゃ」
「はい」
「消防車が走った方角を見ると、赤い」
「昔は外も暗かったですからねえ」
「ああ、だから、僅かな明かりでもよう見えた。空が少し赤みがかっておる。それだけでは距離は分からん。意外と遠かったりしてな。この場合、大火事だ」
「距離感まで分かるのですね」
「親父などは空襲のとき、よく見ていた風景らしいのでな。場所の見当も何となく分かる」
「はい」
「さて、それでじゃ、まずは自転車屋の息子が先陣じゃ。こいつはわしより年上で、年長グループだな。オートバイを持っておる。それで、先に見に行くのだ」
「はい」
「当然常連がおってなあ。いつも飛び出す連中じゃ、遠いと走りでは無理なので、自転車部隊じゃ」
「はい」
「いつも先頭はマレーの虎とあだ名のある山下君だな。こいつが早い。飛び出しもそうだが、漕ぐのも早い。こいつだけは三段変速の自転車を持っておるでな」
「そういう時代だったのですね」
「変速機は、後で付けられるんだが、自転車屋の大将は付けてくれん。なぜなら、すぐに故障するから、苦情が嫌なんだ」
「はい、火事の話に戻ってください」
「だいたいうちの町内から五騎六騎だな。出るのは。近いと歩兵部隊が十から二十出る」
「要するに野次馬ですね」
「それで、先頭を走る自転車部隊の先に、自転車屋の息子が戻って来るところと遭遇する。オートバイで先に見て来て、報告するんじゃ。それで自転車で行ける距離かどうかが分かる。それを聞いたマレーの虎の山下は、そのまま進めば、後列も進む。引き返せば、戻る。遠いと言うことでな」
「はい」
「出て行ったのはうちの町内だけじゃない。他の町の町内衆の部隊も複数出ておる」
「何か楽しそうに話されていますが」
「まだテレビなどなかった。夜はラジオを聴くぐらいしか娯楽はなかったんだ」
「どんな番組でした」
「花菱アチャコのお父さんはお人好しとかな」
「あ、未知の世界です」
「だから、サイレンが鳴ると、飛びつく訳よ。空襲と違い、死ぬことはない」
「はい」
「いつかの火事ではのう、かなり遠かったが、マレーの虎に引き連れられた我が町の自転車部隊は出かけたものじゃ。かなり遠路じゃ。これは火事場では自慢でのう。へー、そこから、と言われるのが嬉しくてなあ」
「はい」
「うちの町内は、自転車屋のオートバイが飛び道具でな。何度も往復して情報を知らせてくれたよ」
「はい」
「自転車屋の息子も、マレーの虎も爺になったが、未だに消防車の音を聞くと夜中でも布団から出るようじゃ」
「はい、ありがとうございました」
「君は偉いのう」
「はあ?」
「最後まで聞いてくれた」
「いえいえ」
 
   了


 


2014年5月8日

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