小説 川崎サイト

 

老猫の奇跡

川崎ゆきお



 これは奇跡のような話なのだが、誰もそれを奇跡だとは気付いていないし、また、特に何かが起こったとも思っていない。当然、そんなことなど思い出にも、記憶にも残らないだろう。
 岩田は早い目に仕事を終え、車で家路を急いだ。妻から新しいパソコンが宅配で届いていると聞いたからだ。早く見たいので、スピードも速い目だ。
 海老原は自転車で散歩していた。自宅で仕事をしており、大きな仕事が入ったので、興奮したためだ。それで、熱を冷まそうと自転車に乗り、近所を走っていた。こちらも、結構なスピードを出している。
 この二人の間には因果関係はない。
 あるとすれば、海老原の自転車と岩田の車とが交差する場所だ。接点はそれだけだ。
 親の因果が子に報い、ではないが、見えない意図の糸でもあるのだろうか。しかし、ここでの繋がりは、やはりない。
 二人とも浮かれていた。共通することはその程度だ。不特定多数の人が行き交う道路。これも遠く離れすぎていると、二人の接点にはならない。
 海老原は狭い道を走っていた。いつもよりペダルを踏む力が強い。暗雲が消え、これからは十分食べていけるだけの仕事を得たためだろう。いつもはふてくされたような漕ぎ方で自転車を進めているのだから、現金なものだ。やはり現金が入ってくるので、そうなるのだろう。
 ただ、海老原は、こう言うときほど用心しないといけないと経験上知っていた。
 車を走らせている岩田もそうだ。浮かれて暴走しているわけでもない。急用で急いでいるわけではなく、早く帰ってパソコンを見たいだけなのだ。もう五年も古いのを使っており、DVDドライブは故障し、SDカードのスロットルも最近は反応しなくなっていた。それよりも動作が遅い。また、OSもサポートから外れてしまっている。
 実際にはゲームをサクサク動かしたいだけなのだが。
 さて、奇跡だ。
 岩田の車は裏道に入り込んだ。夕方で渋滞しているため、秘密の間道を作っていた。その間道は殆ど車は入って来ない。狭いし交差点が多いのだが、信号が殆どない。つまり、路地程度の細い道にいちいち信号はつけないためだ。その枝道をいくつも通過するが、歩行者や自転車がたまに横切る程度だ。車が入れない枝道の方が多い。
 海老原はそんな小道を自転車で走っており、交差点というほどのものではないが、車がそれなりに通る道路にさしかかる。
 浮かれているときほど、気をつけようの教訓は生かされなかった。両人とも。
 海老原は何のためらいもなくそのまま道路に飛び出そうとした。家の塀などがあり、見晴らしの悪い場所だ。あまり車が通らない道路という意識もある。
 そこに岩田の車が、普段よりもスピードに乗った状態で来ていた。
 岩田が飛び出した瞬間、車がすぐ右に来ていた。本来なら、ここで接触するだろう。
 車の岩田は前方に白いものを発見した。猫だった。ゆっくりとしたスピードで道を横切ろうとしている。轢きたくないため、海老原は後続車を確認して、ブレーキを踏んだ。
 老猫は油断していた。いつもは左右を確認しながら横断するのだが、邪魔臭くなり、そのままゆるりと歩いていたのだ。車が来ていることは分かっているが、横着した。しかし音が近付いて来たので、急ぎ足で渡った。
 岩田が飛び出したのはそのときだ。海老原の車は減速していた。止まりかけていたのだ。
 岩田は猫をやり過ごしたあと、自転車が横切ったが、意に介さなかった。
 老猫が起こした奇跡なのだが、ここでの三者は誰もそれを知らない。
 だから、奇跡が起こっていても、分からなかったのだ。当然、老いた白猫も。下手をすると白地に赤い日の丸猫になっていただろう。
 しかし、この猫、もし若い猫ならさっさと渡り、岩田もブレーキをかける必要はなかった。そのかわり、岩田の自転車をひっかけたに違いない。
 この横着者の猫に感謝すべきなのだが、猫にはその意図は最初からない。
 これは奇跡と言えるかどうかは疑わしい。全体を知っている者にしか分からない。
 
   了




2014年5月19日

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