小説 川崎サイト

 

日常茶話

川崎ゆきお



 日常茶話。本人やその周辺ではよくある普通の話だが、少しだけ変化があったとき、それを語ることがある。僅かな変化やありふれた話なので言わなくてもいいようなことだ。
 差し障りのある話ではなく、どうでもいいような、たわいのない話題なので、影響は少ない。
 ただこの日常茶話、平和で穏やかなときになら聞けるが、とんでもないことが起こっているときは耳障りとなる。日常茶話を楽しめるような状態ではないからだ。逆に他人の平和さが羨ましく思える。
 田中はのんびりとした暮らしになってから、より地味で変化の少ない日常茶話に入っていった。ただ、これは人には語れない。どうでもいいことで、普遍性はあっても、聞くに値することではない。当然語るに値しないと考え、田中も人には話さない。
 ただ、その些細事が大きなうねりや、本流に繋がる重要な兆候なら別だ。ある事柄を端的に表している象徴的なものだろう。
 ただ、これは何でもかんでも、それに結びつけることになるのだが。
 細部に神が宿ると言われているが、神は何処にでも宿っている。だから、細部にもだ。
 世の中は何処からでも見える。そこにデータなどなくても。風向きのようなものは感じられる。ただこれは抽象的で、確たる証拠をつかんだわけではない。
 日常の中で、田中はそれを観察しているのだが、それは感じるからだろう。あくまでも、これは主観的で、独りよがりが多い。だから、凄いい発見をしても、人に話さない。小さな話は小さいままで終わらせれば、そちらの方が罪は軽い。しかし、それを大きな話に持ち込むとなると、いわゆる大げさな話になる。風呂敷を広げすぎるのだ。
 田中は細かい話、小さな話なのに、それを宇宙まで持ち込むほど風呂敷を広げるタイプだ。だから、黙っているのだ。
 田中は日常のちょっとした話は人にはしない。だから、日常話、日常茶話には感心ない人だと見られているが、実はそうではない。逆なのだ。話さないだけのことだ。
 駄洒落の好きな人がいる。それを嫌う人が、一番駄洒落が好きな人かもしれない。しかし、いっさい駄洒落は言わない。これも独り言で、大量のダジャレを発しているのだが。
 人は見かけ通りの人もいれば、見かけ通りではない人もいる。そういうのを田中は、どちらだろうかと、判断するのも楽しみにしている。
 ただ、それが分かったからといっても大した果実は得られないのだが。
 
   了




2014年6月8日

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