小説 川崎サイト

 

よし子

川崎ゆきお



 取引先からのメールが届いた。返事だ。ひと言だけ書かれている。
 倉橋には理解出来ない。仮にもビジネスだ。だから、ビジネスメールに、そんなひと言だけの返事はおかしい。
 そのひと言は先方のメッセージだろうが、意味が分からない。まるで暗号だ。しかし、日本語の人の名。
 社内にその名前の女性はいない。取引先の担当者は男性だ。
 倉橋は庶務課の奥で、隠居のように過ごしている前畑を訪ねた。こういうときの要員ではないが、妙なことがあったとき、この前畑が頑張る。社内のことも取引先のこともよく知っている人だ。
 倉橋はプリントアウトしたメールを前畑に見せた。
「女性の名前だね」
 これを見た瞬間、もう前畑はぴんときた。解読する必要もない。
「よし子」
「よし、という意味でしょうか」
 あまりにも簡単すぎて、倉橋には分からないのだろうか。
「子が、付いてるでしょ」
「じゃ、やはり女性名ですねえ。思い当たる人はいませんか」
 前畑にはもう分かっていることなので、早く意味を説明してやればいいのだが、当たっているとは限らない。やはり当事者の倉橋の方が「よし子」について思い当たることがあるかもしれない。
「よし子にやはり心当たりはありません」
「その担当者と、よし子関連の話は出ませんでしたか」
「出ません」
「うーん」
「女性名など、これまで一切出ていません」
「じゃ、やはりあれだろうねえ」
「教えてください。よし子とは誰なのですか。ホラー映画に出てくる貞子のようなものですか」
「そんなホラーではないよ。それに君に思い当たらないのなら、人の名ではない」
「じゃ、何ですか」
「言っていいかな」
「はい」
「断りのメールだよ」
「はあ」
「冗談はよし子さんだ」
「そ、そんな」
「だから、返事はひと言、よし子だ」
「そんな」
「省略して(よし子)だ」
「ビジネスメールですよ」
「君の出した予算は、冗談のように低かった。それだけだよ」
 倉橋はむかっとした。それならそれで、予算がどうのとか言ってよこせばいいのだ。
「まあ、そういうことだよ」
「なんて、こった。冗談はよし子さんだ」
 符丁は伝わるものとは限らない。
 
   了
 




2014年6月23日

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