小説 川崎サイト

 

ミックスサンド

川崎ゆきお



 立花は最近感覚的になっている。感情的に、と言ってもいい。感覚と感情の違いなど考えたこともない。そういうことを考えるのが理知的とか言うのだろうか。感覚や感情だけに囚われないで思うこと、考えることだろう。それは分かっているのだが、なかなかそうはいかない。つまり人は「考える葦」だが感情的動物とも言う。それは動物には失礼かもしれないが。
 感情はエンジンで、感覚はセンサーだ。感情は動力でもある。感情的になるからこそパワーも出れば、逆に元気もなくなる。感情が薄くなると、刺激もない。あまり世の中が楽しく見えないだろう。逆に悲しくも見えないのでとんとんかもしれないが。
 この感情の問題は気分の問題でもある。気分そのものが感情の産物のためだ。ではどうしてそういう気分になるのかだ。
「感情的になってはいけません」と立花の師匠が言う。
「師匠は、その言葉、感情で言ってません?」
「言ってます」
「よかった。安心しました。何か非常に高度な頭脳から発した言葉だと思ったので」
「それを使うまでもないでしょ。こういうのは感覚だけで十分」
「感覚と感情について教えて下さい」
「感覚により、感情が出る」
「はい、分かります」
「終わり」
「まだあるでしょ。解説が」
「あるように思うのは、感覚ですか、感情ですか」
「感じです」
「じゃ、感情ですね」
「いえ、勘です」
「じゃ、感覚ですね」
「うーん、どちらかなあ」立花は迷った。
「迷っておるのかね」
「はい」
「それは感覚かね、感情かね」
「両方です」
「ほう」
「ミックスされたようなものです」
「そうだね立花君。こんなものは分けなくてもいい」
「感情や感覚の奥にあるものは何でしょう」
「踏み込んだね。立花君」
「はい」
「赤ちゃんを見ていると分かるかも」
「赤ちゃんが欲しているものですか」
「それは快不快でもあるし、好奇心でもある」
「師匠、また適当な」
「赤ちゃんが人間の原型であるなら、意外と単純なものかもしれん」
「はあ」
「ただの好き嫌いとかね。そう言うことだけで、人は動く。そんな偉そうなことではなく。そういうのは後付けだね」
「もう聞きません」
「私の話をかね」
「はい」
「それは立花君にとって単に不都合な話になるからでしょ」
「聞いても無駄なので」
「それは、感覚ですか感情ですか、それとも理知的なことですか」
「やはり、ミックスサンドのようです」
「はい、それでよろしい」
 
   了
 


 


2014年7月1日

小説 川崎サイト