小説 川崎サイト

 

天の声

川崎ゆきお



「ほんの少し、一時間で結構です。時間をずらせば違う世界が現れますよ」
 富田はそんな言葉を聞いたような気がした。気は確かだ。空耳にしてはしっかりとした言葉だ。ある単語を聞き違える、見間違えることはあるが、長い言葉だ。文章と言ってもいい。しっかりとメッセージ性がある。しかし、誰が言ったのかは分からない。そんな言葉が聞こえてきたのだ。
 自分で言ったのかもしれない。きっとそうだと思い、富田は気にしなかった。
 ある日、一時間ずらす用事が朝にあり、出掛けるのをいつもより一時間遅らせた。そのため、その後の立ち回り先も一時間ずれた。
 いつも道で出合う人は当然合わない。ずっとその道端で立っている人なら別だが、その人も用事で動いているのだろう。その用途が重なり、すれ違う程度。
 そして、あの謎の言葉を証明するかのように、珍しいキャラと遭遇する。時間帯が違うため、今まで遭遇しなかった人だ。その中に医者がいた。医院が開く前だ。富田はその医者を知っている。半年ほど通ったことがある。もう殆ど治ったので、その後行っていない。その医者が駐車場から出て来たのだ。医院が借りている駐車場だろう。数台は止められる。
 富田は軽く会釈した。もう治りましたよ。その後無事ですよ。ということを伝えたかったが、入ってからの準備も大変だろうと思い、遠慮した。医者は最初こわばった顔をしていたが、富田が笑顔で頭を下げたためか、医者もにこやかな顔になった。いつもの温和な目の垂れた先生の顔になっている。
 富田は病んでいたとき、この医者の笑顔を見るのが好きだった。何となく安心出来たからだ。
 これは一年前の話だ。確かにそこには世界のようなものがあった。病気という世界だ。今はもう忘れており、そんな世界など消えたようになっている。
 時間をずらせば別の世界が現れる。確かにそうかもしれない。
 その後入った喫茶店も、いつも通っている店だが、スーツ姿の勤め人が多い。テーブルにパソコンやタブレットを置き、何やらチェックしている。いつもなら、富田がその店を出て一時間後の世界なのだ。一時間前なら年寄りが朝のモーニングを食べながら、新聞を読んでいる。確かに世界が違う。
 富田が知っている町とは、ある時間に対してだけで、全ての時間帯を知っているわけではないのだ。そして、ほんの一時間の違いだけで、キャラも違う。別の人が住む町のように見えてくる。
 その時間そこにいる、いないかで体験出来るものが違う。
 一時間ずらせば……のその言葉、誰が言ったのだろう。何処から聞こえてきただろう。まさか天の声ではあるまい。
 
   了
 


 

 


2014年7月10日

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