小説 川崎サイト

 

風邪と空手と海釣り

川崎ゆきお



「風邪ですか?」
「ほんの少し、夏風邪だ」
「でも、こうして出て来て大丈夫なんですか」
「大丈夫って、強そうだねえ。丈夫な上、さらに大が付く」
「あ、そんなこと言えるようなので、大丈夫なんですね」
「まあ、寝込むほどのことはないって程度かな。しかし、今日はスローペースで行くよ」
「はい」
「高校のとき、担任が空手部部長でねえ」
「あ、はい」
「風邪の話をした」
「はい」
「まあ、君は聞くしかないのだから、黙って聞いてなさい」
「はい、そのつもりです」
「風邪を引いているのに、海へ釣りに行った。磯釣りだがね。あれは移動は徒歩だし、足場も悪い。砂浜を歩くだけでも体力がいる。岩場となると、今度はバランスが要求される。風邪で頭がふらついていると危険だよ。風邪より、怪我の方が怖い」
「風邪なのに趣味の釣りですか」
「仲間との約束があったんだろうねえ。その空手の先生」
「それで、風邪はどうなりました」
「それそれ、潮風に吹かれながら体を目一杯動かしたら、風邪が吹っ飛んだらしい」
「豪快ですねえ」
「しかし、温和な先生だったよ。怒ったこともないしね」
「それが何か」
「私もそれを高校の頃聞いたのだが、ずっと覚えていてね。だから、風邪のときでもいつものように体を動かしたり、仕事をする。まあ、軽い風邪程度なら、普通に、みんなやってることだから」
「そうですねえ」
「しかし、年を取ってからは治りにくい。一ヶ月以上かかったりする。だから、慎重にならざるを得ん」
「じゃ、休んでおられたら」
「だがねえ、動いた方が治るかもしれないというのが、刷り込まれていてねえ。あの温和な空手の先生。担任だがね。そんな荒っぽい先生じゃなかったのに、その風邪の話だけがラフファイトなんだ。これは本当かもしれないと思ってねえ」
「やはり派手に動いた方がいいですか」
「汗をかいて熱が下がることもあったけど、打率は低い」
「打率?」
「治る確率がね。殆どは変化なしで、自然に風邪が抜けるまで治らなかった。しかし、二割ほどの率で、治ることもあったんだ」
「やはり、風邪のときは安静にしていないと。休める身分なら」
「そうだね。今はその身分だけど」
「風邪は万病の元ですから、気をつけて下さい」
「ああ、それでね」
「まだ、あるんですか」
「その空手の先生、その後、どうなったのか、心配でねえ」
「風邪は治ったのでしょ、海釣りで」
「いや、その後の人生だよ。当時先生は三十前だ」
「どういうことですか」
「今生きておられるとすれば八十前後」
「消息は分からないのですか」
「高校二年の担任だからね。同窓会もない」
「風邪をねじ伏せるような人なので、お達者なのでは」
「その印象しかない」
「はい」
「だから、風邪でしんどいとき、出ないといけないときは、その先生を思い出すんだ。治ることもあるんだって」
「今日も思い出したのですか」
「そうだ。しかし、思わしくない」
「それはいけませんよ。お帰りになっては」
「ああ、そうする」
「お大事に」
「うむ」
 
   了


 


2014年7月13日

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