小説 川崎サイト

 

師匠の辞書

川崎ゆきお



「人は何を頼りに生きておるのだろう」
「頭の中に辞書があるんでしょ」
「みんなナポレオンか」
「辞書にないものは、新しく辞書に書き加えられるのですよ」
「辞書はデータのようなものか」
「ライブラリーですよ。ひな形なんかも入っているんでしょうねえ」
「その人オリジナルのか」
「さあ、既製品じゃないですか。使い回しのいいのが残ったりします」
「ことわざ名言辞書もか」
「はい」
「しかし、同じ事柄でも、悪く受け取ったり良く言ったりするじゃないか。あれは矛盾しておるぞ。辞書など役に立たんじゃないか。どちらでもいいのなら」
「ああ、だから、選ぶのですよ。そしてよく選ぶ辞書をブックマークして、お気に入りにするのです。いずれもコピーですからね、自分で作った辞書じゃないので、いくらでも入ります」
「自分で考えついた辞書はないのか」
「あるでしょうねえ。経験に基づいて」
「その辞書こそが正しいのでは」
「いや、一人の人間が経験することなんて僅かですし、何かの偶然でそうなっただけの話かもしれませんから、ローカルなものです。だから経験だけに頼るのはまずいですよ」
「なるほど」
「そういうことも含めて、解釈の仕方の違う辞書も加わるのです」
「え、今何と云った。分かりにくいぞ」
「だから、経験に頼ると、まずいですよと言うのも辞書に入っているのです」
「経験だけに頼るとまずいかどうかは何処で判断する」
「まあ、適当ですよ。何か当てはまらないなあ、って気付いたあたりからですかね」
「それは辞書にあるのか」
「気付くことがですか」
「そうじゃ」
「いや、辞書にはそこまで載っていないと思いますよ。ただ、そう言うこともあること程度は」
「分かりにくいぞ」
「これはおかしいぞと感じたのが、当たっていたり、勘違いだったりと、よく分からないでしょ。実際には」
「そうじゃなあ、思い過ごしもある」
「そうでない場合あるでしょ」
「どっちじゃ」
「だから、それは辞書を繰る側の問題です。辞書は固定していますが、人はナマモノですからねえ」
「辞書に頼るのは良いのか、悪いのか」
「いや、そのままでも実際には頭の中の辞書を繰ってますよ。頼るも何も」
「では辞書の項目が多いほど有利か」
「あまり昔の言葉なんかを引用しても、通じないことが多いです。基本的なものだけで、いいんじゃないですか」
「辞書数が多いほど強いと思うが」
「使い方でしょうねえ。使う間合いや、タイミングです。より細やかな事柄や逆に大きな枠も言い表せますからね」
「じゃ、やはり辞書の繰り方にかかってくるのじゃな」
「そうかと」
「じゃ、辞書など当てにならんじゃないか」
「だから、そういう繰り方に関しての辞書も含まれているのですよ。やはり応用しないと駄目ですよ。師匠」
「辞書の繰り方の項目は何処に載っておる」
「それを推測するのが大事です」
「推測」
「思い巡らせば、何処かに書かれていますよ。それを引っ張り出せばいいのです」
「そうか」
「分かりましたか、師匠」
「ああ」
「じゃ、今日の伝授はこれぐらいで」
「明日もよろしくな」
 師匠は頭を下げた。クーデターが起こっていたようだ。
 
   了
 


2014年7月16日

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