カタリ
川崎ゆきお
「土日、祭日でもないのに、いない」
「はい」
老人が怪異を語るかのように語り出した。語りとはカタリとも言い、嘘を語ることもある。集うのもタカルといえば、虫がタカルようなものになる。そのため、カタリには嘘も混ざっている。その老人の語りは、その口調からカタリではないかと思われた。
「何処でですか」
「朝の道じゃ」
「何処の」
「普通の住宅地の道だ」
「そして、何がいないのですか」
「子供じゃ、小学生がな」
「はい」
「いつも私はその道を決まった時間に通る。コンビニでサンドイッチとミルクを買うのが日課になっておる。ミルク、すなわち牛乳じゃな。これは小さいのにする。残すとまずくなる。それはいい。余談じゃ」
「平日なのに登校風景がないのですね」
「そうじゃ」
「それは、学校の創立記念とか、運動会とかがあって、その振替日で、休みとか」
「水曜日じゃ。運動会なら土曜か日曜だろう」
「その謎は解けましたか」
「ああ、夏休みだった」
それで話が終われば、何も言うことはない。
しかし、聞き手は、それで失望した。語り手の老人は「すまない」と思った。カタリはここから発生する。この後だ。
その後日、また老人は妙なことを言い出した。
「登校風景を見た」
「夏休みなんでしょ」
「ああ」
「じゃ、登校日かもしれませんよ」
「それだけじゃ、すまん」
「それだけじゃないと」
「服装が古い」
「はい」
「鞄を袈裟懸けにしておる。ランドセルじゃない」
「来ましたか」
「知っておるのか」
「いえいえ、その児童に思い当たるものはありませんが、少女は全員オカッパ頭じゃないですか」
「先に言われると辛い」
「要するに、昔のあなたが通っていたような時代の服装なんでしょ」
「辛い」
「いいです。そんなにサービスしてもらわなくても」
嘘を語る。良いように考えれば、過剰なサービス精神なのかもしれない。
了
2014年8月2日