小説 川崎サイト

 

遊女の幽霊

川崎ゆきお



 それを体験した人と、そうでない人とでは、多少の違いは出る。大意は同じでも、語尾が違うのだろうか。
 というようなことを木下は文学青年と話している。言いだしたのは文学青年の方だ。
 青年は純文学、私小説を書いている。体験したことしか書いていないが、どれも嘘臭い。本当にあったこと、そのときの気持ちなどを書いているのだが、作り物のよう見られるらしい。そういうのは体験していなくても書けるようなものばかりのためかもしれないが。
「そんなことはないよ。滲み出てますよ」
「そうかなあ、何処に」
「え」
「滲み出てる箇所」
「だから、こう、全体の雰囲気が、これは体験した人でないと出ないような」
「何処に」
 木下は弱った。
「ひと言で言えば、読んでいて退屈なんだけど、こういうのを書けると言うことは、体験しているからなんだ」
「退屈なんだ」
「君は」
「退屈じゃないよ」
「あ、そう。だから、書けるんだ。それがもし体験していないことなら、途中で飽きて書けないと思うよ」
「じゃ、退屈なことが書けるのは、体験しているからかい」
「そうそう、その証拠だよ」
「でも、結果的には退屈な小説になっているんだろ。体験していない人が書く方が切れがいいし、すっきりしていて読みやすいのかもしれない。だから、体験を書くのも考え物だなあ……と最近思うようになったんだ」
「ある心理を体験した人と、そうでない人とでは、微妙にニュアンスの違うものができる。と、思うけど」
「それそれ、そう言うことを、もっと言ってくれないと」
「だから、君の私小説も興味深く読ませてもらっているよ。言葉の出し入れ、使い方が、体験している痕跡として出る」
「じゃあ面白い?」
「退屈だ」
「あ」
「でも、その退屈さがいい。何も起こらないしね。淡々としている。まあ、とんでもない体験などそんなにあるわけじゃないから」
「僕が幽霊を見たとしたらどう」
「え、そうなの」
「これは、見た人と見なかった人では書き方が違うでしょ」
「ああ、違うと思う。それ以前に書けないと思うけど」
「どうして」
「見た幽霊にもよるけど」
「書いたなあー、と怨まれるから?」
「それもあるけど、君の小説らしくなくなる。君は怪談は似合わない。君のは平々凡々とした退屈な日常を書くところがいいんだ」
「だから、書いてはまずいの」
「見たの」
「と、思う」
 その部屋は、昔は小さな遊郭で、その後、赤線だった。今はアパートになっているが、そろそろ年季が入りすぎ、取り壊さないといけない。当然、妙なものが染みついているような場所なので、出てもおかしくはない。
「見たの?」
「そうだと思うけど、違うかもしれない。それで相談なんだけど、体験した人が書く書き方って、あるの」
「え」
「幽霊を見た人としての書き方」
「見たんだから、そのままでいいんじゃないのかい」
「退屈にならないかなあ。僕の書き方じゃ。出ているのに、出ていないようにみえてしまったり」
「ああ、それはいい。そういう退屈な怪談を読みたいんだ」
「じゃ、怪談じゃないよ」
「体験したことを書いているのに、嘘っぽくなってしまうのは、君のいいところでもある」
「褒めてないよ」
「それより、どんな幽霊を見たんだ」
「それがよく分からない。その丸い鏡のある壁の横にスーと」
「どんな」
「着物を着た女の人。きっとお女郎さんだと思う」
「時代劇だなあ。女郎とは」
「この建物が建った頃にいた人じゃないかな」
「それで……」
「それだけ」
「スーと見えただけ?」
「ああ」
「その後は」
「何もない。一回見ただけ」
「なるほど」
「だから、本当に幽霊だったのかどうかが、曖昧で」
「そうだろうねえ」
「だから、これは体験なの」
「体験でしょ」
「でも、怖くなかった」
「ほう」
「懐かしいような」
「うん」
「お婆さんの箪笥を見たときのような」
「箪笥?」
「実家にお婆さんの箪笥があるんだ。それを開けると着物が入っていた。派手な模様の柄、地味なのまで、色々あったなあ。それを思い出した」
「それそれ、そういうエピソードを入れることで、本当らしく見える。体験して始めて、そのお婆さんの着物と繋がったわけだから、作り物の話では出てこないから」
「しかし」
「なに」
「本当に見たのかどうか、今でも曖昧なんだ。だから、自身がない。もし錯覚だとしたら、嘘が基点になる」
「ほう」
「どうしょう」
「あ、そのことを書けばいいんだ。そのまんまを」
「そうか。なるほど、解決した」
 それで、完成した小説は、やはり退屈で嘘臭かった。そしていつ幽霊が出たのか、よく分からなかった。
 しかし、木下はこういうさりげない怪談を読みたかったので、文句は言わなかった。
 
   了

 



2014年8月23日

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