小説 川崎サイト

 

過去のこと

川崎ゆきお



 昔のことを思い出すのは、懐古趣味だけではない。非常に無駄な月日を費やして、やっていたことなどは思い出したくはない。ただ、そんな情熱があり、それを懐かしく感じることはあるが、結構苦い。逆に、今、そんな情熱を持って取り組んでいるものが減っていた場合、寂しい思いにもなる。
 ただ、自分が体験していない古い話などは、その限りではない。それは大昔のことなのだが、意外と今のことに当てはまったりするからだ。特に人の動きは太古とそれほど変わっていないのではないかと思える。特に歴史の話になると、今の権力争い、利権争いと殆ど同じだ。こういうものは昔から続いているだが、あまり誉められはしない。
「昔の人はどんな暮らしをしていたのかに興味があるんだ」
「いいじゃないですか。そういうものを研究するのも」
「でも、庶民というか、普通の人の暮らしなどはあまり記録がなかったりします」
「いや、結構細々と古文書を見れば、分かるでしょ。誰々が借金して、みんなで助けたとか。風邪で仕事を休んだとか」
「そんなの、何処に残っているのですか」
「この前、この近所の旧家からも出たらしいよ。そういう日記が。村のことについての覚え書きかな」
「それは貴重ですねえ」
「今の家でも、残っている家があるでしょ。何代か前の、まあ、明治時代でもいいです。その人が書いた日記とか」
「ああ、あります。僕の爺さんも日記を書いていまして、それが残っていますよ。でも、退屈で、途中でやめました。ただ、僕が生まれたあたりのところは、しっかりと読みましたよ。このお爺さん早く死んだので、あまり印象がないのですが、よく遊んでもらっていたようです。そんな記憶殆どありません。一緒に映画に連れて行って、劇場で、泣き出されて往生したとか」
「そうですねえ。私も小学生に上がったときの記憶など、殆どないのです。もう物心が完全付いて、自分という存在も理解できているはずなのですがね。殆ど忘れています。毎日毎日通っていたんでしょうけど、どんな道だったのかも忘れています。ただ同級生の女の子はよく覚えています。出るって漢字があるでしょ」
「出るですか」
「山が二つ重なってるように見えますねえ」
「はいはい」
「私は、その字を知っていた。小学一年なので、ひらがなかカタカナですよね。まだ漢字は先です」
「はい」
「しかし、出口とか、書かれてあるでしょ。それで、あれは、でと読むんだと知りました。それで、書いたのです。その出を。すると、その同級生は、そんな漢字はないと言うのですよ。僕は見たのだから、あると言い張りました。このエピソードだけは覚えているのです。小学一年時代、たった一つだけですね。あ、担任の先生の名前と顔は覚えていますよ。これは大事です。変わった名前でしてねえ。筧と言うんです。だから、私は筧学級なんです。これは覚えないとだめでしょ。先生の顔も。学校で迷子になりますからね。あ……」
「どうかしましたか」
「一つじゃない。いや、二つじゃない。もっとある。その筧先生にオツメを切ってきないさい言われました。今思い出すとおばさんのような先生で、中年ですねえ。象のように大きかった。それで、家に帰り、オツメを切ってきてくださいと言われましたと、親に言いましたよ。親は笑っていましたがね。オツメがおかしかったのでしょうね」
「指の爪ですねえ」
「そうそう」
「そういうのはどこかに記録しているのですか」
「ああ、頭の中に入っていたんでしょうねえ。特に書き物としては残していません。まあ、一年生から日記を付ける子は珍しいでしょ。それに全部ひらがなになりますしね」
「そういう昔あった些細なことって、何だろうと思うのです」
「ああ、とるに足らないことですよ。そんなことで、歴史は動きませんしね」
「事件じゃなく、昔の人は、日々どんなことをやっていたのか、興味があるのです」
「いやいや、私は自分の昔のことさえ、同じ人間だったのかと疑うほどです。忘れていることのほうが多いです。しかし、あえて発掘するような気はありませんが」
「すみません。僕の場合、単に興味本位で、昔の人の日常を覗きたいだけで」
「書かれていないことは想像するしかないですよね。口伝えも、途中で切れたり、もう言わなくなったり、途中で話が違っていたりするようですから」
「どうしてですか」
「ああ、聞いている人に受けるように、アレンジするんでしょうねえ」
「あ、僕もします。昔のことを話すとき、相手に合わせたりします」
「そうじゃないと、聞いてくれませんからねえ」
「はい」
「しかし、全くの嘘じゃないでしょ。やはり動かせない事実は、そのままでしょ」
「そうです」
「最近はどんな昔話に興味がありますか」
「戦国時代とか、村の人が戦に出るとき、どんな気持ちだったとか、どんな配置だったとか。武器や鎧は、自前なのか、貸してもらえるのか等々です」
「ほう」
 聞き手は、ここで興味を失ったのか、少し横を向いた。
 
   了


 


2014年9月2日

小説 川崎サイト