小説 川崎サイト

 

非常階段の女

川崎ゆきお



「夏風邪を引きましてねえ」年老いた映画監督が言う。
「出てきて大丈夫ですか」その助監督だった青年が聞いている。
「鼻がむずむずするのと、全身がだるい。その程度だから、問題ないでしょ」
「でも、無理をしないで」
「はいはい。しかし、急に涼しくなったので、寝冷えかもしれません。もうタオルケットじゃだめだ。きっちりとした掛け布団じゃないとね。しかし、寝る前は暑くて何も使わなかった。そして、夜更け頃、寒くなってきた。これが効いたのでしょ」
「季節の変わり目ですからねえ」
「秋口に風邪を引くのは年中行事のようなものでね。これは健康の証だ。ここで風邪を引いていないと、後が怖いよ」
「軽くてよかったですねえ」
「お陰で妙なものを見たよ」
「熱もあったのですか」
「ない」
「あ、はい」
「ここへ来るまでの話なんだ。だからさっきのことだ」
「どの辺りですか」
「このショッピングビルの階段だ。非常階段だ。私はそこを上がるのを日課にしている。この喫茶店のある二階までね」
「僕はエスカレーターで上がってきますよ」
「私は自転車をビルの裏側にある駐輪場に止めるのでね。非常階段の方が早いんだ」
「はい」
「その階段から下を見ると地階が見える。地下二階まであるんだねえ。このビル。下は車の駐車場だろう」
「そうです」
「その隙間から上を見ると当然上の階が重なって見える。階段は二つ折れになっている。だから、踊り場がある」
「手すりの隙間から落ちないでくださいよ」
「十センチほどだ。大丈夫だ」
「はい」
「裏玄関から入ると、すぐに店屋が並んでいる。そこへ行かないで、壁伝いに行くとトイレなどがある狭い通路がある。その横に非常階段がある。外付けじゃなく、ビル内にある。ここは非常ドアになっていてねえ。鉄の扉だ。防火用だろうねえ。また、営業していないときは閉まっておる。だから、閉まった状態で見るとすれば、ボヤでも出たときだろう。煙が階段を走るのでね」
「えーと」
「どうした」
「何を見られたのですか」
「あと一歩だ」
「はい」
「その非常階段、このショッピングビルの開店直後に行くと、閉まっている状態が見られる。警備の人が開けて回るんだ。店が開いた瞬間、非常ドアも開けて回るんだろうねえ。だから、少しタイムラグがある。早く来すぎると、二階へ上がる非常階段の非常ドアがまだ閉まっているんだよ。そこに表示があってねえ。開店十分後となっている。開くのがね。下から上へ順番に非常階段を開けるのに、それぐらいの時間はかかるんだろう」
「その非常ドアを開けたとき、何か見られたのですね」
「客は勝手に開けられないよ。警備員が開ける瞬間を見たことがあるがね」
「で、何処で、何を見られたのですか」
「あと、一歩。二歩だ。今朝は普通に開いていた。開店後十分はもう経っているからねえ。そこを一歩踏み出すと非常階段だ。踊り場があり、上へも下へも行ける。そして」
「出ましたか」
「下からね。といってもすぐ横にいる」
「誰が」
「掃除をしている人だ」
「ああ」
「毎朝非常階段の掃除もやっているんだねえ。掃除機のようなもので、吸い取ったり、道具でくっついているものを剥がしたりとか」
「要するに、掃除をしている人を見たと言うだけのことですか」
「若い女性なんだ」
「は」
「掃除の人も開店と同時に下から始めるのか、たまに出合う。しかし、おじさんだよ。年寄りは意外といないのは、体力がいるからだろうねえ。年寄りは自転車整理とかに出てる」
「若い女性ですか」
「帽子を目深にかぶっていたが、間違いない。若い」
「おばさんかもしれませんよ」
「私だって映画監督だ。それぐらいはすぐに分かる。だから、若いのでドキッとしたんだよ。いつものおじさんじゃないんだ」
「美人でしたか」
「スタイルはいい。細面で、これもまた細いが鼻筋が通っている。唇は少し分厚いが両端が上を向いている。年寄りだと、これが下がる」
「お婆さんだとへの字になりますよね」
「他にバイトがあるだろうにと思ったよ」
「それを見られたのは、さっきですね」
「もう遅いでしょ。非常階段の掃除は終わっているはずですよ。別の所へ移動しているかもしれません」
「しかし、まあ、あることですよねえ」
「それと風邪だ」
「え、風邪」
「風邪を引いたり、体調が悪いときに限って、その女性清掃員を見るんだよ」
「偶然ですよね」
「だから、風邪を引く日を楽しみにしているよ」
「はい、お大事にと言いたいところですが」
「因果関係はないと思う」
「偶然ですよね」
「しかし、毎回続くと、本当にそんな女性がいたのかと、疑ってしまう。調べれば分かるんだけど、事情がいるだろ」
「このショッピングビルの人ですか、業者ですか」
「分からないが、このビルのマークを付けた作業服だ」
「僕も見たいです。今から探してみます」
「風邪の時にだけ現れる若い女性清掃員。それでいいんじゃないのかね」
「あ、はい。でも気になります」
「君は制服マニアかね」
「女清掃員事件簿です」
「なんだいそれは」
「今、シナリオの練習中なんです。その美人清掃員が事件を解決する」
「家政婦は見たであるだろ」
「清掃員って、公共の建物にいても目立ちませんよね。だから、刑事ドラマでも清掃員に化けて見張るとかあるじゃないですか」
「タイトルがどうかなあ、ポスターになったときのことも考えないと」
「事件簿なので、シリーズものに……」
「はいはい」
 話はここで終わるのだが、このショッピングビルには女性の清掃員は雇っていないとなると、怖いだろう。
 これは出ていても、出ていないようなものになる。
  
   了


2014年9月12日

小説 川崎サイト