小説 川崎サイト

 

ポケットの底

川崎ゆきお



 倉橋は鞄のポケットに手を突っ込み、ライターを探した。出かけるとき煙草を忘れたのだ。当然ライターも。
 道端で一服吸おうと服のポケットに手を入れるが空振りする。煙草とライターがない。これはたまにある。煙草の予備を鞄の前ポケットに入れていることもあるが、それは出かけるときだ。残り本数が少ないときに限られる。従ってその日は鞄の前ポケットにはないが、ライターはあった。途中で買うにしてもライターまでは買いたくない。ライターは部屋の中にかなり残っている。いずれも煙草を十個入りで買うと貰えるためだ。それが余っている。だから、わざわざ買う必要はない。ただ、今日のように忘れたのなら仕方がない。百円ライターは途中で点かなくなることがある。使い始めてすぐなのに。そういうことがあるので、鞄の中に予備を入れていた。
 煙草のことより、倉橋が気になったのは、なぜ忘れたのかだ。きっと急いで家を出たためだろう。しかし、意外とそんな日ほど忘れ物をチェックする。だが、よく考えると、急ぐような理由はない。それに急いだ記憶もないが、何か普段とは違っていた。
「普段着だ」
 涼しくなり始めたので、上着を一枚余計に着て出た。
「これだな」
 いつもは胸のポケットに煙草とライターを入れる。だから、少しだけ胸元に重さがある。自分の部屋から玄関までの僅かな歩数の間で、それが分かる。胸元が今日は軽いと。それで、手を当てると、煙草がない。これはたまにある。しかし、今日は、もう一枚羽織った上着には胸ポケットがなく、腰にポケットがある。それで気付かなかったのだろう。
 その問題は、もうそこまでで、途中で煙草を買うことで解決したのだが、指先が別のものに触れていた。それは鞄の前ポケットからライターを取り出したときだ。ここには何も入れていないのだ。それこそ予備のライターと煙草程度だ。だから、ライターだけのはず。たまにデジカメを持ち出したとき、その前ポケットに入れる。裸のままで。だから、そこにライターを入れたくなかったが、デジカメを入れる頻度はそれほど多くはない。カメラとライターがこすれ合うのを想像したこともあるが、予備のライターは底の隅で大人しくしていることが分かった。
 先程指先で感じたのはライターではない。布だ。鞄の内側を包んでいる生地とは違う。少しザラットしていた。
「そんなもの、開けてみればすぐに分かる」
 と、思うものの、もう少し間が欲しい。当てるための。自分で入れたものなのだから、ああ、これだったのかと、すぐに分かる。しかし、今は見当もつかない。
 倉橋は自分で出したクイズを楽しんでいるようなものだ。指にザラッとした感触があり、布のようで、ふんわりとしていた。大きさは分からないが、前ポケットに入るほどのものなのだから、小物類だろう。
 数分考えたが、答えが見付からない。これ以上はストレスとなるため、さっとファスナーを引き、中を見た。
 女性用の小さな袋だった。
「匂い袋」
 そんなはずはない。入れた覚えはない。しかし派手な柄だ。和風の。
 そして手に取ると、その長細さですぐに分かった。眼鏡ケースなのだ。当然中に眼鏡が入っている。
 倉橋は老眼鏡を使わないと、手元の文字が読めない。いつもは鞄のメインポケットに入れて家を出る。それを何度か忘れた経験があり、出先で困ったことがあった。それで、予備の眼鏡を買い、前ポケットに入れていたのだ。女物なのは、知らないで買ったためだ。レンズが小さいので選んだ。それに付いていたケースが、その和柄だった。
 謎も神秘も、深い意味もない。しかし、最初、その着物の布のような眼鏡ケースに手を触れた瞬間、謎の闇がちらりと覆ったのは確かだ。
 
   了



2014年9月18日

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