南が怖い
川崎ゆきお
人は何処かに住み、何処かで暮らしている。また立ち回り場所もある。その中で、あまり向かわない場所や方角ができてくる。用事がないためだろう。昔よく行っていた町や通りもそうだ。
「怖い方角があるのです」画家の青木が言う。まだ若い。
「そうなんだ」
聞いているのはフリー編集者の北山で、一回り年が離れている。二人は今は友達のような関係にある。なぜなら、仕事で合っているわけではないためだ。
「それもあるんですけど、よく行く場所が限られてくると、長く行っていない場所が怖いのです」
「おかしくなってないかな」北山が心配する。
青木は、妙なことを言い出す青年で、北山はそれが楽しくて、たまに出合って雑談する関係だ。いつも北山の方から訪ねる。場所は駅前の古びた喫茶店。北山はその駅まで何度か乗り換えて出向いている。青木が出不精なためだ。そのアパートから駅までは徒歩十分と近い。
「最近はこの駅前までの道が多くて……。そこで用が足りるから」
駅前は北と南に別れ、いつも合っている古い喫茶店は南側。北側は駅前開発ですっきりとしているが、意外と人が多いのは古い商店街のある南側だ。線路沿いにスーパーや飲食店が並んでいる。
「一日一日怖くなっていくんだ」
「え、どうしたって?」
「だから、行っていない方角が」
「方角?」
「アパートから見て北が多いのです。東にコンビニがあるので、そちらの方へは少しだけ足を伸ばします。西側には住宅地の中ですが手作りのパン屋さんがあるのでそちらへも行きます。その先は川で、たまに散歩に出るけど、問題は南なんです」
「うん」
また妙なことを言い出したと、北山は多少、期待している。こういう妙な人が好きなのだ。
「南には神社があります。そちら側へはもう一年ほど行っていないなあ。引っ越したとき、少し探索したけど」
「それで、南側が怖いのかい」
「そうなんです」
「じゃ、引っ越せば、その怖さはなくなるんだね」
「え、引っ越す。その気はないよ。家賃は安いし、駅まで十分だし。自転車なら数分だよ。引っ越さないよ。あっ」
「どうした」
「場所に呪われているんです。呪縛なのです」
「はいはい」
「だから、何処に引っ越しても同じ事が起こります。今は南が怖いけど、別の町に住めば、今度は北が怖かったりするかも」
「だったら、怖くならないように、東西南北、こまめに行けばいいじゃないか」
「用がないと行かないでしょ」
「そうだね」
「僕はこの町に組み込まれているんだ。場所の中に僕がいるんだ。そして南に敵がいる。でも僕は嫌ってなんていないよ。行く機会がないから、挨拶に行かないだけなんだ」
「神社に参らなかったことを言ってるの」
「南方への挨拶だよ。神社だけじゃなく、土地の神様から睨まれているんだ。顔を出さないから。いや、踏まないからだ」
「かなり来てるよ青木君」
「おかしい?」
「ふつうはね、そういう発想ができないからね」
「僕の発想じゃなく、場所がそんな発想をさせているんだ。南という方角が」
「で、解決方法はあるの?」
「たまに南側へも出掛ければいいだけ」
「か、簡単じゃないか」
「それがご無沙汰しすぎて、南側へ行くのが怖いんだ」
「え」
「叱られる。嫌味を言われる。何が起こるか分からない。交通事故に遭うかも」
「かなりだねえ」
「だから、南へはもう行かない。そう決心した」
「しかし、この喫茶店のある場所から帰るとき、南へ向かうんじゃない?」
「それはいいんだ。部屋から南がまずいのです」
「一応、理屈があるんだ」
「ルールです」
「ああ、はいはい」
「それで、どうするの」
「ただただ、怖がるだけです」
「じゃ、被害は怖いだけ」
「これは風水や方位学じゃないよ。自分で招いたことなんだ。だって、南側には何もないんだよ。神社以外。行く用事がないんだから」
「はいはい。それじゃね、今度僕が来たとき、駅前じゃなく、その神社で待ち合わせしよう。そうすれば、君は嫌でも南側へ出向くことになる」
「でも、怖い」
「ものは試しだよ。僕が神社で待ってるから安全だよ。用事さえできれば行けると思うよ」
「そうだね」
・
数日後、北山は神社へ向かった。もう秋も深まり、肌寒い。
友人の青木が心配で、その友情からというより、半ば好奇心だ。それに人助けにもなる。友達付き合いは暇がないとできない。若い頃よりも友達が少なくなるのは雑談に耽る時間と比例するのかもしれない。
北山はいつもの駅で降り、そこから青木のアパート前を通過して神社へ行くことになる。途中で青木を拾って一緒に行けばいいのだが、やはり青木一人で向かわすのがいい。一人で南へ行けたことが大事なのだ。駅から青木のアパートまでは十分。そこから神社まではどの程度時間がかかるのかは分からないが、遠くても三十分程度だろう。あらかじめ地図で調べてくればよかったのだが、神社が目的なのではなく、青木を南に向かわせればいい。それで目的を果たせると北山は考えた。
・
北山が駅に降りたとき、青木は既にアパートを出ていた。そして南へ向かう道を歩いている。約束時間をはっきりと決めていなかったことが少し心配だが、北山が駅に着く時間は電話で知っている。だから青木もそれに合わせることにした。一つ手違いがあるとすれば、北山は神社までの距離を把握していなかったこと。道順はおおよそ青木は説明した。青木のアパートから駅へ向かう大通りの反対側へ向かい、信号を三つほど超えた辺りにガソリンスタンドがあり、そこを右に曲がればこんもりとした繁みが見えると。
さて、アパートを出た青木は、その小径から通りに出て、駅のある北ではなく、南へ曲がった。やっと南方へ足を踏み入れたのだ。その瞬間、やや空模様が怪しくなる。これは偶然だろう。だが、青木にはそれは警告だった。何の警告なのかは分からない。最近天候不順で大雨が降る。ゲリラ豪雨だ。この空模様はそれを知らせているとみるのが普通だろう。まさか南に踏み込むと怖い目に逢うぞと知らせているわけではあるまい。その場合でも、では誰がそんなお知らせをしているのだ。
青木は少し歩を緩めた。歩き方が鈍った。実際には足に力を入れすぎていた。まるで見えない落とし穴が開いているかもしれないので、落ちないように踏ん張れるよう。
そこは南北を貫く大通りの歩道で、何人もの人や自転車が行き交っている。もし青木に遠目が効くのなら、駅前から来る北山の姿が見えたかもしれない。
「早く出すぎた」
北山からの電話を受けて、駅への到着時間はおおよそ分かっていたが、余裕を持って早く出たのだ。北山の家から駅までは一時間半はかかる。ただ乗り換えが多いため、早いときもあるし、遅いときもある。
早い目だと先に着いてしまう。部屋でじっと待っているのも落ち着かず、余計に怖くなってきたので、出てしまった。このことがあとで影響しないかどうか、それなりに心配になる。そういう験を担ぐ性格なのだ。
青木は変わりやすい秋の空を見る。
少し雲が多く、灰色かかっているが、すぐには降らないようだ。ここで降れば引き返せる。つまり、傘を取りに戻るため。
しかし、降りそうで降らない。だから、先へ進めという意味だと解釈する。これもまた、この判断があとでとんでもないことに結びつくのではないかと心配になる。
南へ少し行ったところまでは、まだ見慣れた家並みだ。この大通りを駅から戻るとき、視界に入っている。すぐにアパートのある小径へ曲がるのだが、その前に目に入っている。ただのアパートや文化住宅なのにマンションと書かれた木造モルタル塗りの二階屋がある。その先は一戸建ての安っぽい家が建ち並び、たまにモータープールや背の低いビルがある。土建屋のビルだろうか。そこから先は久しぶりの景色になる。だが、南が怖いと言い出す前からあまり通らない道筋なので、以前がどうだったのか、記憶も曖昧だ。
最初の信号を越えたとき、クリーニングが目に入った。これは覚えている。一番近いクリーニング屋だが、最近は駅へ行くところに出している。
「用事があったんだ」
つまり、南へ行く用事がないから、南が疎遠になったのだが、クリーニングという用事があった。これには理由がある。
「ナマズの視線だ」
この町内のヌシのようなナマズのような顔をしたおばさんが嫌だった。少し遠いが駅側にあるクリーニング屋は愛想がいい。店で洗濯するのではない。こちらの方が気楽なためだ。そのことを思い出していると、南へ行くほど濃くなっていく。人間も建物も。
駅前ではなく、神社のある場所がこの町の中心部だったに違いない。建物も古くなる。住んでいる人も古いのだろう。それを象徴するのが神社だ。あそこが濃さの発生源のように青木は考えた。そういうことを以前、散歩中に感じていたことを思い出す。
クリーニング屋が近付いて来た。ここは外からでは店内は見えないが、窓が開いていることがある。主人がランニング一枚でアイロン掛けをしているのを見たことがある。その主人が乗る配達用の自転車は年代物で、荷台には幌がかかっている。幌馬車ではなく、幌自転車だ。店の戸を開けない限りナマズと遭遇することはない。だから、顔を合わせることはない。
青木は前を通り過ぎた。窓も表戸も開いていなかった。本当に営業しているのかどうか、そちらに注目がいく。店主もナマズも結構な年なので、廃業したのかもしれない。戸を少し引けば分かるのだが、その気はない。ただ青木はそんなことを思う余裕ができた。
振り返ればアパートへ入る交差点はもう見えない。それなりに踏み込んでいる。
南に何があるのかと思い返したとき、神社がすぐに浮かんだ。南に向かう日常的な用事がないため、たまに散歩に出る程度。その目安が神社だった。折り返し点なのだ。
クリーニング屋のナマズをクリアしたので、青木は気が楽になり、少し元気が出て来た。何も怖がるようなものなどない。それは青木にも分かっている。ナマズが怖いわけではない。ただのクリーニング屋の女房ではないか。だから、そういうものが怖いのではない。
南が怖い。怖さだけが先に来ている。何かが怖いので南の方角が怖いのではない。
前方の歩道に白いワンピースに真っ黒な髪の毛の少女が立っているのを青木は見てしまった。意表を突かれた。想像だにしていなかったためだ。これが和服なら完全に市松人形だろう。長い目のおかっぱ頭。花魁のお供にいる少女にも似ている。ワンピースは半袖で袖が少し膨らんでいる。まるで西洋人形だ。しかし、半袖では涼しすぎるだろう。
「来たなあ」
青木は覚悟した。ナマズはクリアしたが、この白い少女は難敵だ。
青木はその白い少女に誘い込まれるように近付いて行った。
・
時間は少し戻るが、北山が降りた駅は私鉄の小さな駅で、線路の向こう側は駅前開発でさっぱりとしているが、南側は雑然としている。駅前に僅かながら背の低い商店や市場がある程度だ。新しい商店街は東側にあり、線路沿いだ。真南に道はなく、少し入り込んでから大きな道になる。新道らしく、いずれ駅の前で繋がるのだろう。駅前は線路沿いのほうが活気がある。
改札を抜けたとき、北山はチラシを受け取った。制服姿の女子高校生だが、やや老けて見えた。ティッシュかと思ったのだが、小さな紙切れだ。横文字が並んでいる。新手の風俗かと思ったが、ただのメイド喫茶だった。北山は編集者なのでそういうものにもアンテナを張っている。郊外の町にも、そういう店が流れてきているのだ。
すぐ前にいつも入る古びた喫茶店がある。青木と合うとき、この喫茶店を使っているのだが、いつもがら空きだ。普通の純喫茶では流行らないのだが、メイド喫茶も時間の問題だろうと北山は考えている。
北山は出る前に青木に電話をしたが、もう一度確認の電話を入れた。遅くも早くもなく、予定通りに駅に着いている。
「もしもし、青木君」
「あ、北山さん」
「今、駅を出たから」
「それが」
「南に向かってる?」
「途中だけど」
「向かえたんだね」
「そうなんだけど」
「どうした」
「白い少女が」
「え」
「白い少女を見てしまった。これは駄目です」
「何処にいる。今」
「アパートを出てクリーニング屋の先」
「分かった、すぐに行くから」
「いや、もういいのです。気にしないから、予定通り神社へ向かうから、一人で」
「白い少女って、まさか」
「はい」
「大丈夫か」
「問題ありません。神社へ向かいます。何かあったら電話します」
「ああ」
白い少女、青木が画くイラストのキャラだ。
北山はライトノベルのイラストを青木に画いてもらったことがある。それが縁で親しくなっている。仕事はそれっきりだったが、今でもよく訪問するのだ。それは青木の画く白い少女が気になるためだ。これは画き下ろしたものではなく、青木がずっと画き続けているキャラなのだ。
画家とモデルになる女性との関係に北山は興味を持っていた。その殆どは実在していると。そして、青木は白い少女を見たことがあるらしい。これはイメージの問題かもしれない。頭の中で浮かんだ映像かもしれない。依頼したイラストは魔法使いの少女が活躍するありふれたものだ。そのキャラをそっくり青木は白い少女に置き換えて画いた。これは好評だったのだが、絵の方が勝ちすぎた。小説より奥深かったのだ。
南へ行くと、青木の持っている何らかの世界が開けてくるのかもしれない。それが怖いのだろうか。
・
ある場所にある人物が偶然いる。ある場所で偶然何かが起こる。そこが同じ場所で、何度もそういうことがあるのなら、偶然とは言えなくなるが、よく事故が起こる交差点がある。これは見通しが悪いとかの物理的な原因があるので、偶然とは呼べない。
青木が部屋を出るとき、暗雲が垂れ込めていたのだが、その雲はさらに黒くなり、昼間なのに、もう夕方のような暗さになっていた。しかし、まだ雨は降らない。この降りそうで降らないときは空気が重く、気も重くなる。既に青木は頭が痛くなっていた。
そして、もう約束の神社に到着していた。
目的を果たし終えたのだ。よくあるような郊外の住宅地を歩いただけのことで、異変が起こるようなことではなかった。
しばらくて北山が鳥居を潜り、賽銭箱横の段に腰掛けている青木と合流した。
「白い少女は」
真っ先に北山が訊ねる。
「それが……」
北山はメイド喫茶のチラシを取り出した。
「これだろ」
青木は不思議なものを見るように、チラシを覗いた。
「ああ、それそれ。最初見たとき驚いたけど、近付くと消えてしまった」
「それより、無事で何より、無事に目的を達成したわけだ」
「ああ、だから、もう南は怖いって言わないよ」
「この神社が怖さの本陣だって言ってたねえ」
「本陣じゃないけど、ここが一番怖いと思い込んでいた場所なんだ。南が怖いのは、この神社のためだと」
「それは勝手な思い込みだろ」
「そうかもしれないけど」
「分かる気がする。この辺り、普通の住宅地で、神秘的なものって、この神社ぐらいだからね」
「でも、ここ、神社じゃないんだ」
「鳥居があるし、お宮さんもあるし、狛犬もいるし、賽銭箱もあるじゃないか。手洗い場だってある」
「そうなんですけど」
「また、変なこと言い出すなあ」
「それが実は思い過ごしじゃないのです」
「どういうこと」
そのとき、稲光。
「ほう」
北山は感心した。
「いいタイミングだねえ」
その後、ゴロゴロと鳴り響く。非常に低音で、腹に響くほどだ。
「来るよ」
幸い、炸裂音はかなり遠いところだった。
「何だろう。このタイミング。神社の話をしては駄目だって警告かい」北山は最終選考で惜しくも佳作に入った程度の三文小説を連想した。あざといのだ。分かりやすくていいが、そんな偶然はない。会話中のいいタイミングでの音響効果だ。
「続けて」北山は続きが聞きたい。
「ここは」
「待って」北山は指を口元に当てる。喋るなと言うことだ。
しばらく間が空く。何も起こらない。
「今度は効果音なしか。じゃ、喋ってもいいんだ」
「続き、いい?」
「どうぞ」
「中を覗いたけど、何を祭っているのかも分からないのです」
「ここは神社の境内だよ。だって、石の柱で囲んでるじゃないか」
「玉垣でしょ。でも無記名です」
「え、よく見なかったけど」
「氏子代表とか、寄進した人の名前が大概刻まれていますよ。しかし、ここは名無しです」
「えっ」
「ただの個人の持ち物だと思います。だから、怖いと言ってたでしょ。墓地で何も書かれていない墓石ばかりが立っていたら怖いでしょ」
「のっぺらぼうの墓だね。あり得ないと思うけど」
「それを連想したのです。この玉垣を見て。それで、この神社が怖いって思うようになったのだと」
「白か」
「玉垣が白いっていう意味じゃないですよ。でも白っぽい石でしょ。繋がっているからいいけど、ポツンと一本だけ立っていたら墓石のようだし」
「ちょっと待ってくれ青木君。話はもう終わっているよね」
「はい、お陰様で南へ向かって歩けました。もう南は怖いとは言いませんが、でもこの神社は今でも怖いです。だから、来たくなかったのです」
「しかし、どう見ても、これは神社だよね」
「でも神社なんて、もう必要ないと思いますよ。周り全部住宅地で、他所から来た人ばかりでしょ」
「そうだね。村の神社なら、村人がいないとね」
「きっと残った人が建てたんだと思います。そんなに古くないので」
「まあ、調べれば分かる話だ」
「でも、この場所神社が建っていた場所じゃないと思います」
「はあっ」
「僕は一年前までは、この辺りをよく散歩していました。斜めに走っているような細い道があるでしょ。昔の村道や畦道です。それはそのまま残っていたりします。でも、この神社、そういう村道と繋がっていないんです。元々神社なんて、なかった小さな村だったんだと思います。そうなると、村じゃなかったのかもしれません」
「でも、すぐそこに丘陵があるけど、ここはいい平地だと思うよ。だから田圃だったはずだ。誰かが耕していたんだろう」
「近くにも神社があります。そこの村の人じゃないですか」
北山はスマホで航空写真を見る。すぐ南側にそれらしい町があり、さらに西側にも東側にも、それらしい神社がある。そのバランスから見て、確かにここに神社を置くと引っ付きすぎる。村の神様以外の神社なら別だが。きっと南側の丘陵側にある神社のある村の田圃なのかもしれない、と北山は想像した。
「その違和感が、怖かったのだと思います」
「調べれば分かるよ。この神社のような建物を建てたヌシやその目的程度は」
「あのう」
「どうした」
「僕は、以前調べました」
「そうなのか」
「近所の人にも聞きましたが、他所から来た人ばかりなので、知っている人がいないのです。それで、南側の町まで行き、古そうな家の人にも聞いたのです」
「積極的じゃないか。不動産屋にでも聞けば早かったのに」
「記念館を作るようでした。そのまま放置しているとか」
「誰が」
「南野村の人です。つまり、先祖がここの田圃を耕していた」
「何で、記念館だい」
「さあ、町名変更で分からなくなったらしいですけど、ここは新田だったようです。沼を埋め立てたのです」
「詳しいじゃないか。積極的に動いているじゃないか」
「それで、動きすぎて、怖くなったのです。だから、方角が怖いというのは嘘です。やはり、ここには来たくありません」
「それで、何があったんだ」
「鎮魂らしいのです」
「誰かを祭るため」
「そうです。でもそれは明かせないようです。村の秘密です。何かあったんでしょうねえ。だから、その怨念を鎮めるための神社なんですが、誰を祭っているのかは分からないので、御神体もない。祭り手も白紙です。だから、玉垣に名前が一つもないのです」
「それと、君がよく見る白い少女とは関係する」
「しません。でも、何となく、渦が見えます」
「渦」
「はい、禍のあとです」
「災い」
「はい。生け贄のような」
「墓場まで持って行くって、言うやつだな」
「だから、それ以上聞くと、怖い顔をされました」
北山は、それを喋っている青木の顔が狐か何かに見えてきた。全部嘘ではないかと。しかし、動かぬ証拠の中にいる。この境内だ。
空が少し明るくなってきた。黒雲が薄れたのか、流れたのか、その隙間から日差しが見える。もう脅しの雷の音響効果もない。
夕方前の日差しが、無記名の玉垣を照らし、真っ白にした。
・
一週間ほど経過した。北山は下請けの下請けで作っているムック本の仕事が忙しく、青木のことなど忘れていたが、原稿を取りに三味線の師匠宅へ行った帰り道、鳥居を見付けたので、寄り道してみた。少し前を通っただけだ。
「あれっ」
何か妙な気がした。その神社からオーラーが出ているわけではない。それにまだ境内にも入っていない。通りから見ているのだ。
「無記名」
境内を囲む垣根の玉垣は、どれも無記名で、寄付などをした人の名前など刻まれていない。何本か間隔で太くて高い柱があり、そこには氏子中と文字が刻まれている。他の石柱はそのままだ。
北山は他の神社はどうなっているのか、気になった。見晴らしの良い場所に出ると、神社らしい繁みが見えた。この辺りは、まだ田舎っぽいので、高い建物がないため、森が目立つ。鎮守の森だ。北山はそこへと向かうが、近いように見えたが結構歩いた。そして、神社前で真っ先に玉垣を見た。案の定、そこも無記名だった。
神社の玉垣など注意して見ていない。だから、氏子一同とか、そんなものを見た記憶はあるが、玉垣に実名を入れる必要はないのだ。そんなものを刻むと余計に手間とお金がかかるだろう。フルネームだと、何十年もすれば、それこそ墓石のように見える。
ここから糸がほつれていった。青木の意図が。
「まさか」
それより、早く原稿を持ち帰らないといけない。青木のことより、それを優先させた。こちらのほうが大事なのは当然だ。
下請けの下請けの小さな編プロ事務所に戻った北山は、手書き文字を急いでタイプした。その原稿は三味線の師匠が書いたもので、太棹についてのエッセイだ。北山は興味は全くなかったが、自宅でも袴を履いている人がまだいるので、少し驚いた。そのときだけ、履いたのかもしれない。そういう人なので、手書き原稿でも仕方がない。編集の仕事と言っても、こういう面倒臭い仕事ばかり振られる。
さて、それで一段落したので青木のことを考えた。どうも、やれらたのかもしれない。
決定的だったのは、あの神社だ。青木が怖いと言っていた神社風の建物だ。地図で調べると、神社名も書かれていた。個人の建物なら載らないだろう。
周囲に農家はないが、田畑が消えただけで、住人として住んでいる。だから氏子としても機能していた。ただ、あまり熱心に神社を管理していたわけではなく、年に四回ある行事も適当なもだったらしい。これは氏子代表の人から北山は直接聞いた。大きなマンションの最上階を自分の家にしていた。まだまだ村時代の人脈も生きているが、行事に関しては、手を抜いていると、照れ笑いされた。もう神も何も必要ではないためだろう。
白い少女。これが一番の謎だ。北山は青木と知り合ったのは、彼の画く白い少女を見てからだ。ナイーブ、繊細、精神的に何か脆いが鋭いものを持ち、人が見えない感じないものを感じることができる。そういう画家青木に仕立て上げたのは北山かもしれない。
青木の深層の何処かに白い少女が存在するのではないか、それはアニマのようなものなのか、もっと聖なるものと繋がった何かなのか、と問い続けたことがある。青木は首をかしげて聞いていた。しかし、しつこくそこを弄ったため、まるで誘導尋問のように口を割らせたような面がある。白い少女が見えると言わないと、北山が納得しないと思ったのだろうか。
その後は、北山がイメージする青木像に、青木は合わせ始めたのだろう。
一杯食わされた。欺された……と北山は苦笑いした。それほど追い詰めたつもりはないが、勝手な思い込みで、青木を苦しめたのかもしれない。
窮鼠猫を噛むではないが、窮鼠ネタを繰るだ。青木に操られたのだ。
・
当然、青木はもうあのアパートにはいない。まるでイタチの最後っ屁のように嘘をこいた翌日、引っ越している。
北山は訪ねるまでもないと思い、それ以上追うことを辞めた。ただの好奇心で、遊び半分に、友達のように親しくなり、弄りに弄ったのだ。それを北山は、今回反省したようだ。
青木は南が怖かったのではなく、北山が怖かったのだ。
しかし、ここで不思議な点が残っている。白い少女だ。青木はクリーニング屋の先で白い少女を見たことを北山に話している。北山はそれをメイド喫茶の客引きだと取った。しかし、チラシにあったメイド喫茶は駅近くの線路沿いにある。北山はそこまでチラシを確認していなかったのだ。青木が見た場所は小さな家が並ぶ住宅地で、その種の店があるとは思えない。
青木は本当に白い少女を見たのかもしれない。
了
2014年10月4日