小説 川崎サイト

 

ある寝坊

川崎ゆきお



 岸和田は朝寝坊をした。坊やになってしまったとか、坊主になったわけではない。当然朝寝坊という坊さんが寝起きしている宿坊でもない。
「朝寝坊か」
 岸和田は、この言葉、懐かしく感じられる。それは子供の頃からよく寝坊をし続けているためだ。かなりのベテランだ。また、普通の人でも朝寝坊は結構やっているはずなので、親しみがある。そういうものと親しくなっても仕方がないが、寝坊や寝小便は、結構子供っぽい。それで岸和田は生暖かい懐かしさを感じるのかもしれない。この場合の坊とは、小便臭い子供のことだ。
 しかし、大人になっても、年を取っても寝坊はする。これは子供時代からずっと続いているのだ。子供でも、昔は寝坊すると、朝の膳に間に合わない。一家揃って食べていた時代は、遅れると叱られたりするのだろう。学校や仕事に出るようになってからは、遅刻となり、学校なら門は締まり、入れなかったりする。昔の学校なら何処からでも入り込めるが。
 岸和田は働いていないので、遅刻はない。制裁もない。寝坊イコール掃除当番ということもない。そのため、安心して寝坊はできるのだが、一日のスケジュールが少しだけずれる。
 寝起き、通りにできたカフェに通っているのだが、時間がずれると、いつもの自分のテーブルに別の人がいる。これが気に食わない。いつもの窓際から通りを見ながら濃いコーヒーを飲むのが日課なのだ。通り過ぎる人や車、自転車などを見ることで、服装の移り変わり、季節の飾り付けなどを観察する。これは仕事ではない。
 犬や猫が塀から顔を出し、通りを窺っているようなものだ。そこで、ワンとかニャンとか多少は反応する。または独り言のようなものだろうか。
 そのずれはカフェへの行き帰りの道でも起こる。いつもなら小学生の登校風景は見ないが、ずれると遭遇する。別に悪いものを見るわけではないが、気になることも多い。
 それは、顔を見ていると、この子は大人になれば、こんな親父になるだろうとか、この少女はこの顔では苦しいだろうとか、この子の体型は大人になれば標準になるとかだ。背の高い大きな子も、六年生になると、縮んだように低くなる。そういう子は早熟で、老けて見られるが、結構積極的でリーダー格になる。等々だ。
 中には情けないような子もいる。この子はこの時代から苦労しているのだろう。小学生で既に世間の風を受けているような。それは社会に出ているということではなく、最初から情けないポジションにしかいられないのだ。
 岸和田はそういう子を見ると、頑張れと励ましたくなる。頑張っても何ともならいだろうが、何とか我が道を見付け、一芸に秀でるとか、何らかの動きをすれば、胸を張って歩ける。
 寝坊で、少し時間がずれると、町は違う断面を見せてくれる。町ではなく、人だろうか。人がいるから町なのだ。
 岸和田は朝から少し刺激を受けた。いつもの時間に起きていれば、もっと心やすかっただろうに。
 
   了

 




2014年10月6日

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