小説 川崎サイト

 

お旅所

川崎ゆきお



 住宅地の中に、少しこんもりとした茂みがあり、そこに小さな空き地がある。村落時代の共有地で、今もそのままになっている。そこに石饅頭や、何かの石塔の一部などが置かれている。持って行き場所としてはちょうどいいのだろう。中にはまだ形がはっきり残っている地蔵さんもある。そういう杖のようなものを持っているので地蔵さんだが、もう謂われも何も覚えている人はいない。当然、お参りに来るような人も。
「ここだけは村の面影が残っているねえ」
 老画家が画商と話している。その人はまだ若い。
「ここが出発点でね」
「ここは何処なんですか」
「そこに神社があるだろ。あれも村時代を思い出させてくれる場所だが、ここはそのお旅所だよ」
「お旅所」
「神社から御輿が出るんだが、とりあえず、ここで用意してから村を練り歩くんだ。まあ、休憩所とか詰め所と思えばいい。もうそんな行事はないがね。賑やかな頃はテントが張られ、おむすびとか酒も出るんだ。祭りの前は、ここで太鼓の稽古などもしていたねえ。楽器は太鼓と笛だけ。もう誰も叩かないし、吹かない」
「先生の出発点とは」
「ああ、十八まで、ここで育ったからねえ。高校を出て上京した」
「その後、美大へ」
「実際は小学生の頃から絵は画いていたよ。そして、今思うのだけど、十七か八の頃から一歩も出ていない。あそこが到着点に今はなっている」
「高校の頃に手がけた絵ですね」
「中学高校と美術部にいてねえ。そこで画いた絵を越せない。美大からの絵はその残りクズを使っていたようなものかねえ」
「それは故郷を離れたからですか」
「そうじゃない。年だろうねえ。今から思うと、こんな小さな村で生意気なことを考えていたものだよ。十七八の私はまだガキだった」
 その時代の絵は実家の倉の中で眠っているようだ。当然誰も見たことがない。
「是非拝見したいと思いますが」
「私はそこまでの大家じゃないよ。だから、昔の絵が売れるわけではない。それは君の方が詳しいだろ」
「はい」
「このお旅所から私は故郷を立った。よくここで子供の頃、遊んだよ。そして十七八の頃、いろいろ絵について考えたのも、この場所でだ。ここに来て、そこの石に座り、地面に揺れる木漏れ日を見ながら構想を練った。あの光を筆でチョンチョンと置いていく。そんな感じだ」
「この石ですねえ」
「まだ残っているんだ。しかし、ただの石のままだ。少しは風化したかもしれんがね」
 画商はデジカメで撮影する。
「構想の石だが、それほどの大家じゃない。だから、そんなもの写しても、意味はないよ」
「いえいえ、先生は大家です。画伯です」
「そうじゃない。あの頃の方が凄い絵を画いていたんだ。だから、見せられない。見られない絵だから見せないのじゃなくね、見せると、今まで画いた絵がすべて否定される」
「そういわれると、見たいですよ。先生」
「名のある画家なら、そういう伝説などが残るだろうが、私程度では何ともならんでしょ」
「いえいえ、是非拝見させてください。先生の原点を」
「若い頃の方が良いのを画いていた。その程度のことだよ。そこでもうやりたいことはやり終えていたのかもしれない。上京してからはその残り物を食っていたようなものだ」
「絵は今もあるのですね」
「ああ、倉の何処かにね」
「じゃ、是非拝見を」
「実家は弟が継いでいるんだけど、倉の手入れはしておらん。もうあんな倉、使わないからねえ。捨てられない物を置いているだけだ。だから、たまに風を通す程度で、絵も無事かどうかは分からんよ。私は絵をそこに捨てたようなものだ。もう画けないような絵は、見たくないからね。それにその絵の中にあるんじゃなく、私の頭の中に残っているからいいんだ」
 画商は倉を開けてもらい、その奥に無造作に積まれたり立てかけられている水彩や油絵を見た。
「これは」
 それは何でもないような絵だった。村の風景をスケッチした程度の。
「こういう普通の風景画も画かれていたのですね」
「恥ずかしいから、もう見ないでくれ」
「はい」
 画商は、それでもしげしげと見入る。
「モチーフもテーマも全く違いますねえ」
「ここから離れようとしたんだ。それで今日に至るだ」
「はい」
「だから、絵の出発点なんだよ」
「お旅所ですね」
「やがてここに帰ってくるはずなんだが、そうはいかないようだ。旅立ったままだよ」
「しかし、この絵では、今の先生の地位は築けなかったですよ」
「ああ」
 
   了
   

 


2014年10月24日

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