小説 川崎サイト

 

気怠い時間

川崎ゆきお



 気怠くなってきた。増岡はこういうときは警戒している。特に体調が悪くなるわけではないが、体が重くなる分、頭が軽くなる。軽率になるのだ。ただ、この状態になってから警戒しても遅い。なぜなら、もう軽率になっている状態での警戒なので、緩いのだ。
 これはバイオリズムのようなものだろうか。周期的に来る。それが過ぎれば気怠さも抜ける。半日か一日、長くて一日半ほどの期間だ。気怠く鈍く、元気がない。何をやるにしても大層に感じられる。ただ、それらは普段の二割か三割ほど、その感じが増えるだけで日常生活や仕事には差し障りはない。むしろ大人しく、地味にやっているので、悪い面ばかりなのではない。
 ただ、増岡が警戒しているのは、この期間中、気怠さの中に、すーと抜けの良い風景を見ることだ。これは妄想に近い。室内でいるとき、そんな風景が目の前に出てくるわけではない。いつも目にしているものとは関係なく、想像の絵が出てくる。だから、目で見ているわけではない。
 たまにあらぬ空想に耽り、目の前のものを見ていないことがある。これは、注意力が何か一点だけに行っているためだが、一応見えている。
 増岡が気怠い時期に見る風景は、ただの想像で、妄想のようなものだ。ぼんやりと他のことを考えている状態に近いので、神秘体験でも何でもない。
 この期間、警戒するのは過去の経験からだ。何かが緩んでいることは確かで、あらぬことをやってしまいがちになる。例えばネットショップで何度も最終決済の画面まで行きながら、理性的に思いとどまったことでも、すっとその関所を抜けることができる。こういう危険なことがこの期間起こるのだ。
 ただ、これはあらぬことではない。あり得ることで、買っていたかもしれない商品だったりする。本当は買いたいのだが、いろいろなことを考えると買えなくなる。絶対に必要なものなら、その迷いもないし、買わなくてはいけないので、買えるが、買わなくても別に困らないものを買うときは非常に困る。そこに増岡の本音、欲しいという子供っぽい本質が出るので、それを否定することもまた難しい。なぜなら、勇気がないだけで、買えないこともある。本当は買った方が好ましいのに、下手に押さえ込むためだ。
 ただ、増岡の過去の経験からいえば、そんな状態の時に買ったものは、買った後、それほど役にも立たなかったし、買って気がすんだだけで終わることも多い。
 そんな買い物の話だけではなく、この期間に下手な判断をすると、後で後悔することが多い。そのため、警戒しているのだ。
 また、その副作用として、別の風景が見えるわけではないが、もう一つの世界のようなものが感じられるようだ。これは増岡の錯覚なのだが、本来の自分のあるべき世界が、この気怠いときに顔をのぞかせる。目の前にある風景ではなく、増岡の顔なのだ。自分の顔が目の前に浮かび上がるのではない。また分裂した自分が見えるわけではない。その奥か表面かは分からないが、注意力が落ちている時に見えてくる自分の本質的なものが見えるのだ。
 これは素顔の自分というのとはまた違う。あくまでも幻想的なもので、想像上の自分だろう。
 そういうことは普段でも感じていることなのだが、この気怠い期間だけは二割か三割程度増幅されるようだ。
 頭のピントが少し曖昧になり、甘くなったとき、鮮明さが消えるのだが、そのぼんやり具合にこそ、非常に解像力の高いものを見い出してしまう。
 この期間、危険な状態なのだが、たまにこの期間中に決めたり、やり始めたことが、今も役立ち、自分自身の血肉になっていることもある。虎の穴から虎の子を盗みに行くようなものだ。
 この気怠い期間、増岡はサービスタイムと読んでいる。運が良ければ掘り出し物を掴むこともできるためだ。
 しかし、いつもはこの期間、ただ気怠いだけで、だらけているだけのことが多い。
 
   了
    

 


2014年10月26日

小説 川崎サイト