小説 川崎サイト

 

隠された儀式

川崎ゆきお


 世の中が簡単に見えてきたのは田中が年を経たからではない。何をするにも段階があり、手続きがあった。儀式のようなものだ。それらが簡略化され、それこそ簡単にアクセスできるものが多くなった。
 たとえばちょっとした家ではその家族以外に奉公人がいた。そういう家を訪ねたときは、まずはその種の人が対応する。今はそんな家はほとんどないだろう。下手をすると大きな屋敷なのに、老夫婦しか住んでいなかったりする。
 それほどいい家でなくても、書生などが玄関近くにいた。書生部屋、または玄関部屋というのかどうかは分からないが、訪ねると、この書生がそこから出てきた。主人への取次役だ。
 当然いろいろな祝い事や忌み事にも儀式があり、親戚縁者などが頭を並べた。
 役所の役人や、駅員も偉そうにしていた。券売機やネットで簡単にできるようになると、そこに含まれていた妙な間合いが消えた。最初からなかったのかもしれない。ただ単にもったいぶっていただけなのかも。
 田中の実家は田舎で農家をしていた。先祖代々ではなく、何代か前はもう分からない。だから、家柄や身分に関しては、自慢できるようなものは何もない。
 祖父の話では、村人にも身分があり、順位があったとか。だから集まったときの席順も。田中の家は昔からの小作人だったので、末席以前だ。村の集まりに出られなかったりしたらしい。
 田中がそのあたりに郷愁を感じるのは、なくなった世界のためだろう。今も目に見えないがあるのかもしれないが、祖父の話を聞いていると、神秘的に聞こえた。
 田舎の実家は建て替えられ、本家として残っているが、もう村の中の家ではない。
 また、家の中に神棚があったことも田中は思いだした。あれはどうなったのかだ。仏壇とは別に、神様を祭っていた。竈の神様や、火の用心の神様ではない。しっかりとした神社系の神様で、これは何かよく分からなかった。それも家を建て替えたとき、消えている。もう誰も手を合わさなくなっていたからだ。しかし天井近くの棚にずっとあった。
 今では意味のないもの、旧式なもの、余計な儀式などに属するのだろう。つまり合理的ではない存在として。
 田中はそれが妙に懐かしく思うようになった。その種の仕来りめいたものはフラットではない。謎めき、奥行きがあるように見える。簡単にたどり着けない何かを感じる。
 昔はそう言うものが見えていた。表に出ていた。今は見えていないだけに、逆に分かりにくくなっているのだろうか。
 何でもできそうで、何もできない。という結論を田中は出した。いや、これは既に言い古されていたので、逆に、何でもできないというあたりを出発点にした方が新鮮に見えたりする。
 儀式めいた手続きを隠してしまうと、逆に不便なこともあるようだ。
 
   了

 

 


2014年11月12日

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