かなりの老婆だ。縞柄の黒っぽい着物姿。場所は大きな工場の前。
　塀が長く続く道は、舗装されていないところもある。近くに住宅はあるが、塀沿いの道は住宅地への抜け道にはなっていない。工場の私道かもしれない。
　老婆はじっと工場の敷地を見ている。
　坂上は町の毛細血管のような道を自転車で走るのが好きなようで、その日、久しぶりに工場の前まで来た。
　そして立ち止まっている老婆と遭遇する。
「どうかしましたか？」
「いえいえ」
「お手伝い出来ることがあれば言ってください」
「どこも悪くはありません。まあ足腰が弱っておりますがな」
「休憩中ですか？」
「いえいえ」
　老婆は再び工場を向き、手を合わせた。
　坂上の好奇心が膨らんだ。
「お婆さんはここで何をしているのですか？」
「お参りじゃよ」
　老婆は工場を拝んでいる。
「はて？　僕もこんな人けのない場所をうろついているので人のことは言えませんが、妙ですねえ」
「私はいつお迎えが来てもおかしゅうない年になりましてな。そろそろかなあと、気付くようになりましてなあ。こうしてお参りに来ているのですよ」
「工場ですよ、そこは」
　坂上は言ってはならない言葉を口にしたと後悔した。
「お婆さんはこの近所の人ですか」
「電車を乗り継いで来ましたよ。もう二度と一人じゃ来られんかもしれんがな」
「この工場に何か？」
　工場は日本有数の大企業のものだった。
「故郷ですよ。私らの」
「故郷？」
「先祖の村ですがな」
「ここが？」
「立ち退いたのですよ」
　坂上はやっと意味が分かってきた」
「ほら、あそこに木がありますやろ」
　背は低いが幹は太い。
「鎮守の森がありましてなあ。屋根が見えるじゃろ」
　確かに敷地内に神社の屋根瓦が見える。工場がお稲荷さんとかを祭っているのではなく、村の氏神様の社なのだ。
「約束でなあ。あれだけは残っておるのですよ。今でも私らの氏神様じゃ。工場に入れてもらえんからのう。こうして外からお参りしておりますのや」
　坂上もつられて柏手をうってしまった。
　
　　　了
　
　



　　　　　　　　　　2007年1月17日