小説 川崎サイト

 

空気師

川崎ゆきお


 場所ごとに世界のようなものがある。世界とは大げさだが、狭い世界もあれば広い世界もある。世間という場合、これは一定の範囲がある。家の中のことを世間とは言わないだろう。だから決して世界とは広い世界だけを指すものではない。日本史より世界史の方が大きいのだが、その世界とは少し違う。ある業界内の世界とも言う。これは世間から見れば狭い。また、誰にでも通用するような世界もある。これは分け方の違いだ。物理的な場所を示していない世界だ。また精神世界や、趣味の世界もある。
 場所というのは物理的だが、誰でも入れる場所とそうではない場所、また普段は行かない場所とか、入りたくないが、強制的に入れられてしまう場所もある。そして、その場所独自の世界のようなものがある。このときの世界は、もう物理的なものだけではなくなっている。
 人は滅多に入り込まない場所もある。動物さえも棲んでいないような場所、草木も生えていないような場所。しかし、そこにも何かがいる。少なくても微生物程度はいるだろう。そうなると微生物世界となり、人の場ではなくなる。場所や世界はやはり人と絡んでいないと、ないのと同じようなものになる。
 立ち寄り場所により、その場にふさわしい人になるよう努める人もいる。場をわきまえるとかだ。当然自由にのんびりとできる場では、そんな対人に気遣わなくてもいい。要は場所とは人との絡みがメインになりやすいと言うことだろう。
 場が人を作ることもある。人は親から産まれるが、その意味ではない。良い場所には良い人がいたりする。そういう人達と揉まれるうちに、良いことが起こるかもしれないし、良い素養が付くかもしれない。当然その逆もある。その場の人達が反面教師の役割を果たすとかだ。
 微生物の集まりではないが、人の集まるところ、必ず、起こる振る舞いのようなものがある。微生物でも繁殖するような振る舞いをするだろう。人もそうだ。それはどんな場でも似たようなことが行われている。たとえば指導する側と指導される側、管理する側とされる側、抑圧する側とされる側。それらが曖昧なこともあるが、場には必ずそういった動きがある。
 その場にふさわしい行動というのは、意外とトラップがあり、正解が不正解になることもある。周波の流れが乱れている場合だ。
 と、長い前置きを空気師が語った。いつからそんな職業ができたのかは分からない。勝手に言いだしたのだろう。空気読みの達人かというとそうでもない。むしろ場の空気を乱す方だ。そうでないと空気師など言う世間に通じない名乗りはしない。
 聞いていた弟子は、場や空間がどんどん怖くなりだし、いる場所がなくなるのではないかと感じた。このことを、今言おう、今言おうと目で訴えたが、関知しないようだ。
 そして、場が大事だの、複数世界を渡るコツなどを綿々と語り続けている。弟子は高額な月謝を払っているので、その場から去るのは惜しい。月謝は月初めに払う。まだ月半ばになっていない。もったいないから、去りたくないだけで、この妙な場にいるだけなのだ。
 暑苦しくなるかと思うと、悪寒がするほど寒くなる。まあ、この師匠だけのことではなく、世の中、こんなものだと思えば、何とか耐えられるようだ。
 
   了
   

 

  


2014年12月16日

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