小説 川崎サイト

 

夏の道

川崎ゆきお


 夏場よく通っていた道がある。炎天下、できるだけ日影を通りたいので、その道を田岡は使っていた。自転車が一台、人が一人、何とか通れる幅の日影ができる。ウォーキングの人もよく通っていた。それで行列ができるわけではないが、ポツンポツンと人や自転車が見える。その道は車道の右端で、その横は高架となっている。高架下には立ち入れない。たまに公園のスペースがあり、そこだけは入れるが、子供しかいない。入り口が一箇所しかないので通り道にはならない。それを田岡は右に見ながら通過する。ネットが張られ、まるで動物園だ。猿が飼われているように。
 そして目的地はその先にある喫茶店で、真夏、この店を見つけ、毎日来るようになっていた。田岡の家から高架下の日影へ入るまでの道は暑い。そして、高架を抜け、喫茶店までも暑い。だが、近所ではここが一番炎天下移動が楽なのだ。その道中殆どが日影のためだ。これを田岡は夏の道と名付けていた。決して好きな道でも、目的地も好きな喫茶店でもない。暑さを考えれば、ここしかないのだ。暑い昼下がりでも、ここなら通れる。それが唯一の理由だった。
 しかし、今は冬。未だにその道を田岡は通り、その喫茶店に通っている。もう暑くはないので、どの道でも走れる。むしろ日差しのある道を選んで走っているほどだ。さすがに車道脇の影の道ではなく、自転車レーンや歩道を走っている。夏場狭い影だったが、徐々に延び、冬になると、もう道路から歩道まで日影になってしまうほどだ。当然車道は危ないし、また、もうそこを通っているウォーカーも自転車もいない。全面影になったためだ。
 要するに日が射さない陰気な場所なのだ。それでも習慣とは恐ろしい。もう日除けの用は終わっているのに、その道を通っている。最初の目的が何だったのかも忘れて。
 そして、気が付いたときは、その道が呪縛のようになり、縛り付けられた状態になる。夏場は暑くて行けなかった方面にも喫茶店があり、夏の道を発見するまではよく行っていた。だから、自由になったのだが、夏の道を冬になっても走っている。
 道の流れが付いてしまったのだ。毎日毎日見ていた風景を、また翌日も見る。それを見ないと、何となく頼りない。その夏の道の沿道は大した風景ではない。しかし、夏からずっと通っていたため、慣れが加わり、親しみを覚えるようにまでなっている。
 街路樹の桜が徐々に散っていったのも知っている。幹と枝だけになったが、枝には膨らみがある。まだ真冬前だが、春になると、あれが咲くのだろう。見慣れるとは、目が慣れるだけではなく、流れも見ているのだろう。
 そして、今でも、この道は夏の道の名称のままだ。
 
   了
   
 

 

  


2014年12月18日

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