小説 川崎サイト



ある笑顔

川崎ゆきお



 真冬なのに雨が降っている。寒くはないということだろう。
 堀田は雨の中、自転車で走っている。ビニール傘から透けて見える夜の風景は、いつもとは違う。
 風景が違うだけではなく、いつもの自分とは異なる精神状態に入っていた。渡ったと言ってもよい。
 気持ちは高ぶっているはずなのだが妙にクールだ。ラーメン屋や果物屋のネオン看板に目をやる。意識を逸らせたいのだろう。
「こんな夜は注意しないと」
 会社帰りのマイカーが多い。信号のない道路を渡るには間合いが必要だ。横断歩道などないに等しい。車はそこで止まってくれない。止まると後ろの車に追突されそうなほど車間が狭い。その車がたとえ止まっても、対向車が止まってくれなければ意味がない。
 渡れるようにはなっていないのだ。
 堀田は工場で、似たような状態になっていた。規則通りやっていると先輩から「しなくてもよい」と言われた。
 主任も黙認している。工場長も何も言わない。
 堀田は規則を守るべきだと主任に言う。
「学校で習ったことと実際は違うんだよ。ここにはここの流儀があるんだよ。ずっとそれでやってきたんだ。問題が起こったことなど一度もないしね。もう、そのことは言わないほうがいいよ」
 堀田は自分の職場が反則を犯していることに憤りを感じた。
 本社に通報したが、反応はなかった。
 そして今日、工場長から直接呼ばれた。経営陣の親族らしい。
「君の会社を思う気持ちは尊いと社長からのお言葉だ。君がその堀田君だね。入社早々褒められたね。それで下請け会社へ、君のような優秀な人材を出したいと……」
 堀田は雨の中、横断歩道を見ながら、思い出していた。
 暗い話だった。悪い話だった。会社から追い出されたのである。
「重いなあ……」
 堀田は車が途切れたので渡る。
 雨脚が早くなり、足が濡れ出した。
 家に帰り、会社を辞めることを母親に話した。父親も横で聞いていた。
「仕方がないわね、会社が悪いのよ」
 父親も同意した。
 堀田は就職浪人の地位を獲得した。もう暗さや重さからは解放されたのか、笑顔が戻った。
 
   了
 
 




          2007年1月20日
 

 

 

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