小説 川崎サイト

 

年越しそば

川崎ゆきお


 藤田は年越しそばを食べながら考えた。
 年の瀬は敏感になる。年越しするためだ。山のようなものを越えるわけではないので、何かを足でまたぐのではない。明日が今日になるだけのことだが、新年という区切りがある。しかし、この区切り、何もお知らせがない。除夜の鐘が鳴るとか、年末年始の町の様子などで知らせてくれるのだが、見なければ分からない。犬や猫などは新年がどうのと関知しないだろう。ただ、餌がよくなったりするかもしれない。しかし、それを新年と結びつけることはしないだろう。餌は餌だ。お節の縁起物など頓着しない。
 草木もそうだ。あえて言えば木の芽が出る季節、これが新年かもしれない。新芽という。冬場葉を落とした樹木などには当てはまりやすい。一年周期のためだ。
 一年単位になると、人生規模になる。七十と七十一の違いはあまりないが、十七と十八の違いは結構ある。一年の密度が違うのだろうか。人生規模なら数年規模がふさわしいが、それでも一年一年の積み重ねは人生規模だ。五年ものの定期預金のように。
 それでも一年一年の区切りは区切りやすい。全国的に、その区切りの行事があるためだろう。元旦という。
 食べるものがなくて、年を越せるかどうか、などと言っていた時代もある。今もあるはずだが、実際には人並みの暮らしぶりができているかどうかだろう。年を越せない人がいるとすれば、この世からあちら側へ越して行った人だろう。
 生きていての、この世であり人生なのかもしれない。さて、そこで敏感になる。食べるものがなくて、越せないという意味ではなく、無事に越せるかどうかだ。大過なく越せる。これだろう。すっきりと越せる。後腐れなく越せる。または、大変な災難に遭い、年明けからも、大変なことが待っている。というのを避けたいものだ。
 忘年会でその年のことは忘れる。しかし、忘れていても具体的に忘れさせてくれないことがあれば、本人が忘れても現実は変わらない。
 年越しそばを食べなければ年を越せないわけではないが、これは祝い事かもしれない。年越しそばを食べられる状況が、既に年を越せる人なのだ。
 敏感になるとは、まだトラップがあって、あと一秒というところで、年越しどころの騒ぎではない状況のスタートラインになってしまったということを恐れるからだろう。これは万が一ほどの確率しかないのだが、その万が一が来るかもしれないのが人生だ。
 だから、年越し前後は縁起を担ぐ。万が一に遭わないためだろうか。既に逢っている人は、もう縁起など担ぐ必要はない。そんなものは効かないからだ。
 新春、元旦をそう呼ぶが、少しも春など感じられない。これからさらに冬の寒さが深まる頃なのに。しかし、人生規模で言えば、年明けは新春なのだ。春は四季の始まり。四季が明快にある地域での話だが。
 文化は人に関して有効で、その地域では都合がいいためだろう。当然それらは人が作った。遠いところで作られた文化を取り入れたりするのは、都合の問題だ。
 そしてそれは、時代により結構更新され続けている。誕生日が来なくても、新年で一つ年が増やす習わしがある。元旦は誕生日でもあるのだ。
 だから、この時期、敏感になる。無事に越せるかどうかを。
 藤田は年越しそばを食べ終えた。しかし、値段のわりには海老が小さかったことが気になった。
 
   了
   
   


 


2015年1月1日

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