小説 川崎サイト

 

人生の並木道

川崎ゆきお


 最近行動範囲が狭くなったと佐竹は気付いた。出歩く機会が減ったためだろう。世界がそれだけ狭くなったように感じるが、行かなくなった町が消えたわけではない。最近はテレビを見なくなったので、ますます狭くなった。テレビを消しても、付ければ何かまだやっているだろうし、テレビの向こう側の世界が消えてしまったわけではない。
 以前ならテレビはもう日常の中に組み込まれており、そこに出て来る人やタレント、俳優などは常にそばにいた。知らない人達だが、佐竹は知っている。向こうが知らないだけだ。
 当然リアルでの友人知人も多くいたが、最近は用がないため、滅多に合わない。その間隔が長くなると、合うのが大層になる。遊び友達もいたのだが、年と共に減っていった。あまり遊びに行かなくなったためだろう。
 それで、世界が狭くなったと佐竹は感じたのだが、今はその規模でも、まだ広いように思えた。ますます行動範囲が狭まったのだが拡張する気はない。だから減る一方だ。
 増やす方が負担になるためだろうか。その反面。狭い世界だが、それを丁寧に見ている。例えば、若い頃に通っていた歩道、今は様変わりしたが、並木はそのまま残っている。かなり成長しているはずなのだが、年に一度は切られており、高さはそれほどないし、枝も切られている。ただ、幹は相当に太くなっているし、根も歩道の舗装を持ち上げるほどになっている。
 その枝振りを今はよく眺める。昔はそんなものは見ていなかった。桜が咲いていても、気にも留めない時期もあった。春になったので咲いている程度のことで、それ以上の思いはなかったのだ。それよりも、その歩道は駅に続き、速く歩かなければ遅刻するとか、その日のスケジュールを想像したり、今日合う人と実際に合っているところを思い浮かべたりしていたのだが、今は足の動きが昨日よりは楽だとか、風邪で喉が痛かったのが、今日はましだとか、そちらの狭い世界に気が行くようになった。当然並木の枝葉をそれとなく眺めながら歩いている。
 そして何よりも若い頃と違うのは、その歩道の先にある駅に向かっていても、駅には入らず、戻ってくることだ。つまりはっきりとした用事のない散策なのだ。
 ただ、こういうことは若い頃には出来なかった。そんな暇はなかったのだろう。
 その散策コースも、拡張する気はなく、昨日と同じ風景を見ている方が安らぐようだ。
 賑やかなもの、それは部屋の中のテレビがそうなのだが、その躁状態な番組、テンションの高い番組、さらに必要以上に深刻ぶった番組を見ていると、現実とのギャップをありすぎ、そこで消したことが、テレビを見なくなったきっかけだ。その代わり、並木を眺めているわけではないが、テレビでは映らない自分の人生が並木道では映る。あまりこれも見たくはないのだが、昔のことを思い出していると、それはそれで非常に長い大河ドラマになる。
 ただ、このドラマ、その全体は自分しか見られない。客は一人なのだ。共演者もいるのだが、もう二度と相見えることはない人達だろう。
 拡張せず、縮小し、昔のことを思い出しながら生きているわけではないが、佐竹にとり、最近それが楽しい。そう言えば昔から楽しいことばかりをやろうとしていた。だから、その延長線上にあるのだろう。楽しさの質が変わっただけかもしれない。
 
   了

   


 

 


2015年1月18日

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