小説 川崎サイト

 

ご主人

川崎ゆきお


 住宅地を自転車で移動しているとき、後ろから声が聞こえた。牧田は確かに聞いたのだが、気にも留めず、そのままペダルを漕いだ。急いでいるわけでもないし、家はもうそこで、見慣れたいつもの町内だ。
 最初、その声を聞いたとき、その正体はおおよそ分かっていた。だから、気にも留めずにいたのだろう。それは簡単なことだ。犬の散歩人とすれ違った。小さな白い犬で、飼い主は牧田より少し年が上の年寄りだ。見かけでは分からないので、何とも言えないが、それほどの老婆ではない。同じ町内なので、何度かすれ違う程度のことはあったかもしれないが、記憶にない。牧田はこの町内に長く住んでいるが、出入りも多い。引っ越して来た人かもしれない。その犬の散歩者とすれ違い、さらにもう一人、これも似たような年齢の主婦ともすれ違った。そしてその後、声が聞こえたのだ。牧田が気にも留めなかったのは、この後方の二人の会話だろうと思ったからだ。
 少し自転車で進んだところで、もう一度声が聞こえた。今度ははっきりと聞こえた。
「ご主人」と。
 牧田は自転車を止め、振り返ると主婦がこちらを向いている。その後ろの犬の散歩人も。
「煙草を落とされましたよ」と、主婦。その後ろから犬の飼い主が煙草の箱を差し出している。牧田は箱の色で、自分の吸っている煙草だと分かった。
 牧田はすぐに自転車を降り、それを押しながら近付き、煙草を受け取った。当然丁寧に礼を述べて。いずれにしても町内の人だ。また今度すれ違うかもしれない。
 煙草を落としたのは先ほど煙草屋で二箱買い、そのままポケットに入れた。そのポケットにはまだ残っている箱もある。だから、都合三箱入っていたのだ。ポケットは大きいとはいえ、斜めにカットされた入り口のため、はみ出し、落ちたのだろう。犬の散歩人とすれ違った直後だと考えられる。そして、その直後、もう一人の主婦とすれ違っている。だから、後方から聞こえてきた声は、後方の二人の会話だと気にも留めなかったのだ。きっと顔見知りで、話しているのだろうと。
 それだけのことだったが、牧田がすぐに自分を呼び止める声だと気付かなかったのは、「ご主人」にある。自分のことだと気付かなかったのだ。独身で一人暮らしのためかしれない。
 しかし、このご主人、それほど偉い地位ではなさそうだ。八百屋の主人、大将レベルかもしれない。しかし牧田は、ご主人と呼ばれたことが分かったとき、少し身分が上がったような気がした。
 
   了



   

   



2015年1月22日

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