小説 川崎サイト

 

冬の雨にも負けず

川崎ゆきお


 冬の雨が降り続いている。さほど寒くないのでいいのだが、鬱陶しい。足を止められる。作田は足止めの雨にも屈することなく、いつもの散歩道を歩いている。しなくてもいいことだが、これが日課だ。日課をこなすことが日課で、日課をしているのだ。もうそうなると散歩が目的ではなくなっている。最初の頃は気晴らしで散歩に出た。歩く快さ、外の空気を吸い、リフレッシュさせる。当然沿道を眺めるのも楽しい。だが、雨で傘を差していても足が濡れる。靴も濡れる。決して快適ではない。快さが散歩の目的だったのだが、今は日課を果たすための一コマに過ぎない。週に一度ぐらいは散歩の快感を味わうこともあるが、最近はそんな風景なども見ていないし、歩くことが楽しいとは感じていない。
 こう言うのを惰性というのだろうか。しかしこれは力になる。惰力だ。特にエネルギーを使わなくても、力まなくても散歩に出られる。毎日のことなので、そんなものだと思ってしまえているためだろう。いい癖がつけば、役立つこともあるだろうが、散歩では何ともならない。足腰が弱らなくなるので、いいのかもしれないが、まだ作田はそんな年ではないし、また年を取ればいずれにしても歩くのがしんどくなるだろう。足ではなく腰をやられると、足は何ともなくても、歩きづらい。また、足は丈夫でも怪我などすると、不自由するだろう。歩きすぎて膝をやられることもあるが、作田はそんな長い距離は歩かない。
 この徒歩散歩を作田が始めたのは、仲間達と旅行に行ったときだ。歩き遅れるのだ。普段から歩いていなかったので、少し長い目を歩くと、足がだるくなり、息も切れる。これでは恥ずかしいと思い、トレーニングを始めた。そして数ヶ月後、またその仲間達と旅行に出たとき、長い距離を歩いた。そのときは中程のポジションを得た。平均レベルのスピードでついて行けたのだ。
 作田は決して市民マラソンに出るわけではないので、これをトレーニングとは言わないかもしれない。そんな激しい走り方は必要ではないし、また、散歩なので、走っていない。歩くのと走るのとではまったく違う。競歩もあるが、作田は同世代に遅れをとらない程度の歩くスピードと、持久力があれば満足だ。
 そういう目的で散歩を日課に持ってきたのだが、最近は雨が降ろうと槍が降ろうと歩いている。日課から外すのが不安なのだ。これは儀式のようなもので、それをこなさないと、とんでもないことになるような気になる。そんなことはあり得ないのだが、いつもと違うのがいやなのだ。
 そんな感じで作田は今日も雨の降る中を歩いている。散歩がいつの間にか儀式になり、行になり、雨の中ではもう苦行に達している。
 それを止める人はいない。台風でも来ているのなら別、大雨警報でも出ているのなら別だが、そんなことはない。冬の雨がしとしとと降っている程度。
 散歩に出るのも自由だが、やめるのも自由。どちらを選んでも誰も苦情など言わない。
 このことに気付いた作田は、雨の日は散歩に出なくてもいいというルールを提出しようと考えた。まるで法案並みだ。それが可決されるかどうかは作田にも分からない。作田が言い出し、作田が決定するのだから、何でもありなのだろうが、実はそうではなく、そういう中止の流れが気にくわないのだ。気に入らなければ何でも中止できる。そういう前例を作りたくない。
 雨の日、散歩に出るか出ないかなど、どうでもいい話なのだが。作田にとり、それは己の生き方とも繋がっているのだ。そして、一つの縁起が全体を狂わすこともあると。
 
   了


2015年3月5日

小説 川崎サイト