小説 川崎サイト

 

涅槃へ

川崎ゆきお


 山は浅く、舗装され道路が山門まで来ている。麓の住宅も上へ上へと伸び、今にも山の斜面を駆け登ろうとしていた。あと寺まで一息だ。この寺に高僧がおり、悟ったと噂されているが、もうそんなことを言う人は、僧侶の中にはいない。門外漢の素人が言っているだけだが、大きな噂になるほどのことではない。その種の趣味がある人なら別だが。それに寺社離れの時代になっており、そういった形式を避けて、我流で瞑想などをやっている人もいる。ただ、瞑想にもマスターがいる。面識はなくても、本や動画でなどで知る。
 そう言うことをしている中の一人が、その寺の山門を潜った。門は閉ざされているため、横の垣根から入り込んだのだが。観光寺ではなく、地元の葬式寺でもなく、隠居寺と呼ばれている。ここは象の墓場のようなもので、高僧が過ごす場所だ。捨てられたわけではなく、そういう仕来りなのだ。だから、ここへ来れる高僧はエリートだと言える。そのため、ブッダのように悟った人がいても不思議ではないが、そんなことを信じている人は、もうこの時代、いない。
「青木という者ですが、大高僧様にお会いしたい」
 この青木という人は素人で、僧侶のことを、坊主とか、和尚さん程度の言い方しか知らない。僧侶にも位がある。それが分からないので、大高僧と呼んだ。
「ほう、あなたも。それはそれは、奇特な」
 出て来たのは青坊主だ。つまり、まだ頭を剃っても青々としている青年だ。
 青木は縁側のある座敷に通された。正式な訪問ではないので、庭で合いましょうと言うことだが、実際には豪華な縁側で。広々とした板の間だ。この寺そのものが別荘のような建物で、文人でも住んでいそうな間取りだ。寺と言うより、鄙びた純和風の書院に近い。ここは一応禅寺で、そのためではないだろうが武家屋敷風だ。その昔、ある高貴な人が、この寺に住んでいた。門跡と呼ばれ、要するに寺へ追い出された貴族の次男三男が多い。
「絶好調だったんですがね」と、青坊主がいきなり言い出す。
「え、何が」
「悟りですよ」
「悟られましたか」
「そのピークは去りました。もう少し早ければ、悟った人間を見られたのでしょうが、私は見ましたよ」
「その高僧様のことですね」
「そうです」
「西田幾多郎の善の禅の著者でしょ」
「ああ、それは若い頃に書かれたものですよ。道元や鈴木大拙の研究者でもあります」
「それで、本当に悟られたのですね」
「だと思います。しかし、ピークは過ぎました」
「はい」
「もうお会いしても、何ともならないかも」
「どういうことですか。僕も瞑想や禅には興味があって、その完成品のような人が、この寺におられると聞き、その心境を聞きたかったのですが」
「数日前がピークでした」
「ああ、はい」
 縁側から庭が見える。
 そこに頭から竹の子が生えているのかと思うほどの襟を立てた小柄な僧侶が立っている。
「あ、出てこられました」と青坊主。
 青木は縁側で正座し、高僧を拝んだ。
 高僧はそれに気付いたのか、静かによってきた。
 皺という皺がない。眉間の縦縞も消えている。穏やかな顔で、青木を見て嬉しそうな顔をする。威厳も風格も、一切無い。これが悟った人の顔だと青木は悟った。
「ごはん」
 青木はその声を聞いたとき、さらに全てを悟った。
「ごはん」
「先ほど食べられましたよ」
 ピークを過ぎ、涅槃に入られたようだ。
 
   了




   


2015年3月21日

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