小説 川崎サイト

 

春の野

川崎ゆきお


「暖かくなってくると野に出たくなりますなあ」
「野っ原ですか」
「原っぱでも、何でもいい。草や木が生えているような場所。川でもいいが」
「この周辺は住宅地なので、そんな場所ありませんねえ」
「しかし、少し先だが川があるだろ。さすがにあそこは自然が残っておる。川原には草が生えておるしな」
「いつの時代の話ですか」
「え」
「確かに生えていますが芝生ですよ」
「あ、そう。公園になったの」
「そうです」
「あの川原の草むら、ジャングルみたになっていてねえ、水鳥の巣があったんだ」
「随分と昔ですねえ」
「河童もいたとか」
「それはないでしょ」
「怪しいものが出そうな寂しい場所だったんだよ。道なんてないしね。川原だから。そんなところに踏み込むのはアベックぐらいだ」
「人目を忍べますからねえ」
「変なのも落ちていたねえ。特に春先は」
「稚魚が泳ぎ出す頃でしょ」
「ああ、魚はねえ、本流じゃなく、脇の水路に沢山いたよ」
「水路?」
「田圃に水を引くためのね」
「ああなるほど」
「春になるとよく行ったよ。あの川原」
「今はすっかり公園やグランドになってますよ」
「長く行ってなかったからねえ。あっち方面に行く機会がなかったんだ。それに土手に上がらないと川原は見えんしね」
「川原って、河川敷のことですね」
「そうそう。あの川原がそんな状態なら、もっと奥まで出ないと、野に出るような感じにならんねえ。昔はこのへんは田圃だったから、殆どが野だ」
「野良仕事の野ですか」
「まあ、外でやる仕事のことだよ。田圃に限ったことじゃないけど」
「でも山なら、山仕事でしょ」
「そうだな。山は野じゃないがなあ。野って、平らに拡がっていないと」
「草原地帯のように」
「まあ、このあたりじゃそれはない。牧場があったけどね。あそこが一番広い野だったなあ」
「そうなんですか」
「今は小学校になってる」
「それで笹原小学校というのですね」
「笹原ねえ。笹の原っぱだったんだろうねえ。昔は」
「それは聞いたことがあります。その頃の笹が、この近くの神社の境内にまだ残っているとか」
「詳しいねえ。私も知らなかったよ」
「そうですか。市のホームページに載ってますよ」
「じゃ、池があったんだ。この近くだ。知らないだろ」
「池ですか」
「ため池だが埋められた」
「今は?」
「子供センターのような施設になってる。しかし年寄りがそのグランドでゲートボールをやってるがね。まあ、地の人なら、池の中でやっていると錯覚するかもしれないがね。当時の土手の木が残っている。それで、場所が分かったりする」
「風景にも歴史があるんですね」
「まあ、思い出してもせんないことだし、今は関係のない話だけどね。もう池も田圃も二度と戻らんのだから、その前を通っても懐かしいとも思わんよ。戻せる話ならいいけど、戻せない話は聞きたくもないし、見たくもない」
「そんなものですか」
「少し遠いが、もう一つ向こう側にも学校があるだろ。私はそこの出身だ。木造校舎時代だ。その前をたまに通るがね。何の感慨もない。もう別の物だ。別の小学校なんだからね」
「はい」
「大きな倉のような便所があってねえ。天井が高いんだ。二階ほどの高さだ。だから、上を見るのが怖かった。ここは倉庫と兼用なんだ。物置だね。仕切りがあって、その向こうは倉庫だ。そこに人の背ほどの巨大な玉があってねえ。もう腐りかかっていた」
「何ですか、それは」
「運動会のときの玉転がしの玉だよ。竹で編んで、紙を貼り付けてある。赤や白の玉があったんだが、破れていた。それが提灯お化けのように怖くてねえ。仕切りの上から覗いているようでね」
「あ、はい」
「今日は昔話をしすぎた。ちょいと野に出たくなっただけなんだ」
「田圃も河川敷も池もなくなりましたからねえ」
「そうだね。あるのは空だけか」
「空しいと言うことですね」
「ああ」
 
   了




2015年4月21日

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