小説 川崎サイト

 

呑気な気分

川崎ゆきお


 気持ちが穏やかだと、景色も穏やかに見える。気持ちが落ち着いていると、風景も落ち着いている。同じ町並みでも、それだけ違う。当然見るものも違ってくる。情報的なものより情緒的なものを見る。そればかり選んで見ているわけではないが、普段あまり見ないような雲とか、並木の葉とかだ。当然道端に咲いている花だけではなく、雑草まで見えてくる。こういうものは見なくても困らないので、情報価値はさほど高くはない。
 木下は、そういうものに目が行くときは心身が安定しているとみているが、体はまた別かもしれない。体が弱っているときに見えてくる風景もあるからだ。あまり元気ではない風景を見てしまう。それは病気などで寝込んでいるとき、天井の節穴を見るようなものだ。
 気持ちに余裕があるときも、見るものが違ってくる。普段否定的に見ていたものでも、ケチを付けずに素直に見ようとする。しかしやはり、これは否定すべき物件だと改めて思うこともあるが、それほど感情的ではない。世の中にはそんなものもある程度に。
 懸念が風景を変えてしまうこともある。これは山場を越えて、懸案事項などが終わったとき、気が楽になり、のんびりと眺められることもある。
 そういうことが他の人にもあるのだろうかと、木下は考えるが、これは個人差があり、普遍性はないと思うので、口外しない。それにこういう発想そのものが呑気な話なのだから。
 それを考えると、呑気さが原因ではないかと思える。のんびりとした気分でいられることの幸せのようなものがある。これは簡単に手に入りそうで、難度が高い。障害物が多く、壁も分厚く高いことがある。例えば、長く気にかけていたものを処理するにしても、すぐにできる問題ではない。それが終われば、ほっとし、呑気な気分になれるのかもしれないが、そこまでの過程が大変だ。
 しかし、今日の木下はのんびりとしている。風景が鮮明に見え、目に書き込まれていく。それが快感でもある。特に何かを果たしたあとでもなく、これから希望に溢れるスタートを切ったわけでもない。
 それは雨の多かった春先、よく晴れていい気分になれたからだ。つまり、それが原因だった。意外と単純なことで、人の心など変わってしまうものだ、と木下はニヤ笑いした。
 
   了


 


2015年4月23日

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