小説 川崎サイト

 

こぬか雨

川崎ゆきお


 岩村は毎日喫茶店へ行っている。その日は雨で、傘を差しながら自転車で向かった。春の雨でこぬか雨、傘を差していても濡れる。雨が軽いのだ。遅いのかもしれない。ほどほどの雨なら上半身は濡れないのだが、雨のテンポと自転車のスピードが噛み合わない。これは何十年も生きてきて、始めて気付いたような気がしたが、以前にもあったかもしれない。細かな雨と同じで、話が細かすぎるためと、だからどうだというような意味がないのだ。風は強くない。だから雪のように傘を差していても雪が入り込むのとは違う。やはりテンポが半秒程ずれているのだろう。
 そんなどうでもいいようなことを思いながら、喫茶店に入った。そして、いつものように本を開け、読み出そうとした。当然くどい話だが運ばれてきた珈琲に砂糖を入れたりクリームを入れたりする。それらに異変がなければ、気付きもしない動作だ。だからいちいち言う必要はないが、活字に目が行く先にポケットをまさぐった。煙草を取り出すためだ。ところが、ない。いつも右ポケットに入れている。ポケットの位置や形はこの際あまり問題にしなくてもいい。落ちにくいポケットで、入り口が水平になっており、さらに蓋が付いている。下から突き上げでもしない限り落ちないし、また煙草の箱程度の重さなら、蓋が多少の押さえになり、飛び出さない。
 左のポケットに入れたつもりはない。いつも右と決めている。左はデジカメやケータイを入れている。デジカメが入っているときは、ケータイはズボンのポケットへ移動させる。これも特に言うほどのことではない。煙草は右。これが破られた経験は過去一度もない。そのため、左ポケットから煙草が出たためしがない。それでも、念のため、左ポケットをまさぐる。当然、ない。
 こういう煙草の忘れ方は殆ど岩村にはない。殆どなので絶対ではない。喫茶店で煙草を出そうとして、持ってこなかったことは、過去数回はあっただろう。しかしそうそう起こることではない。それは関所があるからだ。
 その関所は家を出たあとすぐに煙草を取り出し、火を点ける。このとき、分かるのだ。もし持って出ていなかったら、煙草はない。だから、すぐに引き返す。ただ、家から少し離れすぎた場合は、取りに帰るのは面白くないので、コンビニへ寄る。どうせ買わないといけないためだ。ライターの予備は鞄の中に二つ入っているので、買うのは煙草だけでよい。
 それが関所なのだが、その関所が今日は雨のため、機能しなかった。つまり、家を出てからそのまま傘を差した状態で、喫茶店まで来てしまったのだ。雨の降る日、傘を差しながらでも煙草は吸える。しかし、問題はこぬか雨だった。これが煙草を濡らすのだろう。それで煙草を取り出さなかったのだ。当然ポケットに手を突っ込みさえすれば、煙草がないことに気付くのだが、その関所が破られた。
 日常は一寸したリズムやテンポの違いで、大きくうねることがある。ただ、大変な変化でも、事故でもない。一寸した寄り道や、余計な手間がかかったりする程度だが。
 その手間を岩村は喫茶店で起こさなければいけなくなった。つまり、本だけではだめで、煙草がないと読めないのだ。なくても読めることは読めるが、やはり最初は一服吸いながら読む。読んでいる最中ずっと吸いっぱなしなわけではない。だか本を読むには煙草がいる。当然、手元にないので、買いに行く。ただもう珈琲に砂糖もクリームも入れ終え、一口飲んだあとだ。
 煙草屋はすぐそこにあるわけではなく、自販機もない。一番近くの煙草屋はスーパーのレジだ。距離的には五分だろうか。遠くはないが、歩いて往復すると十分。その間、席を立つことになる。ただ、毎日通っているので、バイトの店員とも顔見知りだし、レジからも岩村のテーブルや椅子は見えているし、また、いつも来ている老人グループとも顔なじみなので、それらの人の視線が岩村の鞄を見張ってくれるはずだ。つまり、岩村以外の人間が、その鞄を手にした瞬間、これは置き引きだと分かる。その安全装置を信じて、岩村は荷物をそのままにし、スーパーへ向かった。
 鞄の中にはカード類や身分を証明するものや、月末までの生活費などが入っている。金額は大したことはないが、カード類が消えると面倒なことになる。盗難届や、各社への連絡をしないといけない。余計な手間だ。さらに部屋の鍵や自転車のカギの予備も入っている。以前はそれらをポケットに入れていたのだが、カード類が多くなると、嵩張りすぎるので、大きい目の財布に変えた。
 そして、スーパーのレジで煙草を買い、急ぎ足で喫茶店に戻る。当然ながら、万が一はなかった。少し珈琲が冷めた程度だ。
 こういうとき、入り直した喫茶店、ドアを開けると、いつもの店なのに、様子が違っていたり、常連の老人グループが骸骨になっていたりとかになりそうだが、それらは想像上の話だ。
 そして、岩村は煙草に火を点け、活字を追いだした。いつものコースに戻ったことになる。
 
   了




2015年5月8日

小説 川崎サイト