樽に負ける
川崎ゆきお
そのライブハウスは二階が楽屋になっている。狭いため、上にあるのだが、さらにその上へ行く階段がある。ここはオーナーの私室で、仮眠を取ったりする場所で、当然寝泊まりも出来る。
二階の楽屋までは顔パスで入れても、三階まで上がれる人は希だ。その一人が、ベテランのミュージシャンで、ギターとハーモニカだけで全国を地味に回っている。ヒット曲はなく、一般の人は名さえ知らないし、オリジナル曲を聴いても、分からない。ただ、この業界に長くいるため、ミュージシャン仲間では長老格になっている。ただ年を取っただけで、長く続けているだけのことだ。一曲でもヒットがあれば、知名度が上がり、ライブハウスでもそれなりに客が付くのだが、どの店でも恥ずかしくない程度の客入りだ。数十人しか入れない店では、当然交通費と宿泊費が危ないほどの収入にしかならない。そのため効率よく回っている。
彼は大したことはないが、彼の同時代のミュージシャンは御大になっている。そういった長年の臭い縁のためか、このライブハウスの三階はこの地方での拠点として使わっせてもらえる。宿代が浮く。
「どうしても負ける」
「あなたほどのベテランが」
「野外イベントで若い人が歌ったり演奏してるだろ」
「はい、ありますねえ」
「誰も見向きもしない」
「場所が悪いのでしょ。何処ですか」
「商業施設の中庭だ」
「はいはい、あそこでしょ。フォークや生演奏を聞くような客層はいないですよ、あそこ」
「昔の僕と同じだ。ギター一本。まるで流しのギター弾きだ」
「まったくジャンルが違うでしょ」
「それなんだ」
「え」
「その青年、よくあるフォークでねえ。恥ずかしいよ、今聞くと。青春の叫びのようなもの。僕はこうだった、ああだった。哀しかったなどなどで、やたらと、我が我が、我様の世界だと思っていたら、今度は世界を歌い上げる。世界の平和がどうの、反戦がどうのってね。それを喉が裂けんばかりに真っ赤な顔で歌い上げているんだが、皆さん引いていたねえ。だから、素通り」
「よくありますねえ」
「そこにねえ、木の樽のような、あれは何だろう。バケツのようなものだけど、それを持った親父が、叩き出したんだ」
「ドラムですか」
「そして、歌い出した。すると、人の動きが変わった」
「その人も出演者ですか」
「いや、青年が歌っている最中だ」
「ほう、飛び込みにしては」
「しかし、歩いている人の、歩き方が変わってきた」
「はい」
「何だと思う。その演奏」
「さあ」
「木の樽をただ棒で叩いているだけなんだ。カンカン、ア、カンカン、コロ、カンカンとね」
「それは」
「八木節だよ」
「ちょいと出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で」
「ありますねえ」
「あのリズムで、歩いている人の腰が変わった。引っ張られるんだ。座頭市も乗せたという八木節だ。ついつい体が動いてしまう。歩き方が違う」
「それで」
「その青年は自分の歌をやめ、ぽかんとしている。八木節、あのリズムは危険だ。教えられなくても、習わなくても、分かるんだ。三味も踊りも習いはするが、習わなくても女は泣けるだ」
「まるで猿ですねえ」
「何処かの国の歌の猿真似じゃない。これは恥ずかしいほど乗る。だから危険なんだ。これは禁じ手だ。あれをやられるとフォークもロックもジャズもない。全部根こそぎ持って行かれる」
「そうですか」
「あの八木節から出来るだけ遠くへ離れるために、僕らは歌い始めたんだ」
「そうなんですか」
「そして、あの、はあー、ああー、ああああーという節回し、喉回し。小節回し、これは誤魔化しがきかん。マイクがない。声が通らないとだめだ。しかも豊かな。音頭取りなんだ。仕切るんだ」
「はいはい」
「あんな木の樽と棒にやられたんじゃ僕らミュージシャンのドレミやコードは何だったのかと」
「でも八木節で会場を満員には出来ませんよ」
「金なんて取らないさ。僕の先輩の中にも、それに気付いた人がいる。探していたリズムが、実は一番避け続けていたものだってことをね」
「ああ、なんでしょう」
「僕も、それを聞いていて、座頭市のように、歩き方が変わってしまった。恥ずかしいがね。習わなくてもあのステップは踏める。あの腕の動かし方は出来る。それが逆に恥ずかしい」
「そうなんですか」
「佐渡おけさもいけない」
「あはい」
「阿波踊りもいけない」
「ああ、はい。だから、よさこい大会があるんですよ」
「私の夢は、実はバックに花笠を被った何とか社中のお姉さん達に踊って貰いながら、歌うことだったのかもしれないなあ」
ベテランになりすぎると、そこまで飛び越えてしまうのだろう。
「それでね、今夜のライブだけど、樽桶とバチを用意してくれないか。風呂桶でもいい、出来れば木の」
「あ、はい」
了
2015年5月17日