小説 川崎サイト

 

里山長者

川崎ゆきお


 今なら、やってみたい、今ならできるかもしれないというような事案がある。ある事柄に対しての案件だが、それほど大したことではなく、仕事とは関係のないことだったりする。案件は懸案になる。お蔵入りするのだが、そろそろ出してきてもいいのではないかと思えるような時期がある。早すぎると、まだその時期でないのか、一向に進まないし、気合いをかけても、長続きしない。もう少し寝かしておいた方がいいのだろう。そのうち腐ってしまい、蔵から出しても使い物にならないことももある。これはこれで仕方のないことだろう。
 三村は、その日、ふとその気になって、蔵を開けた。本物の蔵ではない。蔵持ちの家など希で、だいいち、蔵など残っている家や、蔵など最初からない家が多い。あっても物置だろう。
 だからお蔵入りした懸案事項のことで、これをそろそろやってみてもいいと考えた。これはふと、ではなく、何か理由がある。いきなりふととは来ないはず。そのきっかけは様々で、ぼんやりとテレビを見ているとき、偶然映っているもので、思い出したりとか、通りを歩いていて、それに近いものと遭遇したときとか、ふとにも、ふっとにもそれなりにスイッチがある。
 しかし、長年の懸案とは言いながら、すっかり忘れているものは、もう懸案ではない。普段から案じていないため、それに関わるようなものと遭遇しても、引っかからないのだ。発火しない。
 懸案はまだ生きているが、お蔵入りは、もう意識に上からず消えたも同然だろう。それをふっと思い出すのは余程懸案に近い、また、懸案を呼び覚ましてくれるような刺激物でないと駄目だろう。これは偶然だろうか。ただ、その偶然が起こったことで、懸案始動のきっかけにはなる。
 時期というのはそういうもので、懸案の多くは、もう見たくはないとか、見ても見ぬ振りをしたり、避けて通りたいものだ。しかし、いずれやらなければいけないことの場合、時期をずらしているだけだろうか。これは懸案にもよる。
 さて、三村の懸案だが、それほど難しいことではない。朝に里山、裏山歩きをすることだ。散歩だ。呑気な懸案で、そんなもの懸案でも何でもない。しかし、それがなかなか実行できないまま今日に至っているのだ。昼間ではなく、朝。ここが味噌で、朝一番に近い感じで、寝起きに出る散歩だ。しかも里山。そんなものは近くにない。だから、年を取れば、里山近くに引っ越そうとしていたのだが、家を立てるお金もないし、マンションを買う余裕もない。丁度いいところにそんな物件があるのだが、今となっては夢のまた夢だ。そこは里山の麓で、ここなら毎朝すぐに里山歩きができる。
 しかし、それが不可能と得心したとき、自転車で麓まで行くことにしたのだ。歩いてはいけないが、自転車ならいける。そこに自転車を止めて、里山散歩をし、また自転車で戻ってくればいい。これなら、麓に住む必要はない。
 里山散歩の懸案は、出世して家を建てたり、マンションを買うと言うところと連動している。その望みが絶たれたため、お蔵入りになってしまったのだ。そこに自転車というバイパスができた。
 三村はそれを実行したのだが、里山近くへ行ってみると、羨ましくて仕方がない。つまり、マンションなどが山際にあり、本来なら、そういうところに住んでいるはずなのだ。その坂を自転車で登るのは、何か違うような気がする。里山と言ってもいきなり岡などがあるわけではなく、平地から徐々に坂道となっていて、里山の麓へ行くまでにも、そのなだらかな上り坂に出くわす。ここは計算していなかった。しかし、帰りは、楽なので、それで帳消しとした。
 すると、朝から里山というか岡というか、繁みとかを歩いている人、犬の散歩人などと出くわす。きっと近所の人だろう。
 三村は麓の公園に自転車を止め、そこからさも近所の人のように歩く。それを数ヶ月続けると、すっかり地元の人になった。三村は結構貫禄があり、長い髭を生やしている。だから、このあたりの長老というか、山持ちの長者さんのように思われているらしい。これはいい。
 そのためか、行き交う人は挨拶してくれる。よく考えると、このあたりの山際の住民は、皆さん余所者なのだ。元々住んでいるような家など、もう殆どない。
 次の懸案は簡単だった。だから、懸案とは言えない。それは公園に自転車を止めているのがまずいこと。やはり自転車を目立たないところに隠した方がいい。それが、今の懸案で、何処に止めるかを探している。
 
   了

 







2015年6月2日

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