難解書
川崎ゆきお
「若い頃読んでいた本がありましてねえ。分厚いハードカバーの哲学書でした。丁度今頃の季節、暑い盛り、気も狂わんばかりの気温。だから、狂ったのでしょ。そんな暑苦しい哲学書を読むんだから、また、そういう状態でなければ読まなかったのかもしれません」
老人は遠い目をする。少し斜め上に黒目を持っていき、ほんの少しだけ斜め上に顎を上げればいい。これは知ってのことで、わざとなのだ。その演技が下手なのか、むりとにそんな仕草をやっていると見破られたようだ。ただ、聞き手は先輩にそんな失礼なことは言わない。言わないが、思っている。この程度の御仁だったのかと。
「それはまだ若い頃だ」
それも先ほど聞いた。もう忘れているのだ。ただ、これは枕で、そこから語り出さないと、雰囲気が出ないのだろう。
「それはまだ若い頃で、本当に暑い頃だった。何が書かれているのかさっぱり意味が分からないので、冷や汗が出たよ。これで涼しくなった。従って涼むために読んでいたようなものだ」
聞き手は次に何を語るのかを考えた。しかし、さっぱり分からない。どの方角へ持っていくのが読めないのだ。この先輩の話はあちらへ行ったりこちらへ行ったりする。
「そして、先ほど読み出してみると、これがすらすらと読める」
つまり、その難しい哲学書をまだ持っていたのだ。何度か引っ越したはずなので、その度に、その本も運んだ。そのとき、売ったり捨てたり、やったりする本も出てくるはずだ。
「この本は全部、最後まで読んだが、さっぱり理解できんので、読んだことにならないので、未読扱いにしましたよ。それを何十年ぶりかで読み始めると、言ってることがよく分かる。思い当たることが一杯あるし、難しそうな言い回しも、今なら、さっと飛ばして読める。否定しているが実は肯定しているんだが、それも本当は否定的に、とかのニュアンスが掴めるようになった」
聞き手は、ここで少しだけ話が読めた。
「残念だよ。今頃やっと理解できるなんてね。今じゃ、もう読まなくても、そんなことは知っている。しかし、もう遅いんだ。こういう本は若い頃に読んで理解しないと、意味がない。年を取ってからではもう使いようがないからねえ。ここにパラドックスがあるのですよ。書かれていることを若い頃に理解していれば、よかったのか、それとも悪かったのか。おそらく理解していれば、分かったつもりになっていたでしょ。下手に理解できなかったからこそ、その後の私があるのです。この本に限らずね。また、本など読まなくても、今の私がある。と言うようなことを、その本に書かれていたのですよ。直接じゃないですよ。膨大なページ数を使って、そのことを言いたかったんだろうねえ」
聞き手はその本を知りたくなった。そして読みたくなった。
すると、先輩は本棚から、その本を取り出し、聞き手に渡した。
その本の著者は、この先輩自身だった。
了
2015年6月4日