小説 川崎サイト

 

雨がふっていた

川崎ゆきお


 岩田公二。いわたこうじ。イワタコウジ……。誰だろう。待てよ……。思い出した。確か……自分の名だ。
 江戸屋の最中を食べると、眠くなった。ホームゴタツに首まで入って、そして、眠ってしまったのかな。郵便屋がもうすぐやってくる。ブレーキの音で分かるんだ。カタンという音がすると確実に何かが入っているんだ。ゴー。これは飛行機だ。近所に飛行場があって、うるさいんだ。薄目を開け、窓から外を見るとB29が飛んでいる。うそ、うそ。何をするんだったかな。確か何かをしなくてはいけない。自分は何をすべきか。自分は過去何をなしてきたか。そして将来何をすべきか。ハハハ。力みすぎなんだ結局。
 夏になったら泳ぎに行こうかな。海水パンツはあったかな。なかったみたいだな。買ったことがないんだから当然だな。日記を付けようかな。絵日記が面白そうだな。しかし自分は絵が下手だからやめとこう。仕事。仕事は何だったかな。何を職業として自分は生計を立てておったのかな。税金を払ったことがないので、うまく言い表せないなあ。表現力がないのかなあ。そんなバカな。自分の職業を、どう表現するのか迷うなんて社会人じゃないよな。
 夏になったらパチンコ屋へ行こう。冷房が効いて涼しいんだ。しかし、クーラーの近くは寒いんだ。しかし意外とそこが盲点で、よく出る台があるかもしれない。いや、ないかもしれない。どっちだ。やっぱり運だ。職業は何だったのかを思い出したぞ。パチプロだ。パチンコで生計を立てていたんだ。えっ! 生計を、立てて。待てよ、そんなに勝ってたかなあ。負けてるみたいだなあ。はっきり言って負けているよ。生計なんて立っていないよ。せっかく岩田公二という自分の名前を思い出したのに、職業が思い出せないなんて社会人とは言えないよな。「職業は忘れた頃にやってくる」これは台風か。ジェーン台風。室戸台風……面白かったなあ。あんなの毎年来ないかなあ。しかし、鬱陶しく、大層な話だけど、仕事をしなくては食べていけないのだ。仕事をしなくても食える方法さえ見つかれば、仕事をしなくてもすむ……「うむ、道理だ」そんな方法は果たしてあるのだろうか。うむ、難しいぞ、これぞまさしく仕事だ。何か別の生き方はないものか。例えば趣味に生きるとか……。趣味。シュミ。自分の趣味は……。趣味は何だったかなあ。待てよ。趣味なんてあったかなあ。これも問題だなあ。楽をして生きていこうなんていう根性がそもそもだめなのかなあ。もっと建設的に明日を見なければ。しかし、建設的というのは、大層だな。そんなことまでして生きる必要はないんだよな。人間が生きていくというのは、生きているということなんだ。何でもないことだよ。考えても考えなくても平気に生きていけるものなんだ。深いところを突いても答えなんて出ないんだ。出たためしがない。そう考えよう。そう思うようにしよう。しかし、しかしこの鬱陶しさはどうしたことなんだ。考えなくても考えてしまうのは考えが足らぬからか。考えを加えれば考えなくてもすむのか。「考えに住む」うむ、いい言葉だ。「考えに住む」知的だ。実に知的でいい言葉だ。
 ところで、今、何時頃だろう。時計をなくしてからというもの、社会生活も失ってしまった。郵便屋のブレーキの音はどうしたのだろう。ちょっと見に行こうか。何か来ているかもしれない。通信教育の案内書がまだ届かない。二十枚もハガキに(案内所送れ)と書いて、方々へ出した。もうその一陣が来る頃だ。自分は忍び足にて管理人室の前を通り、玄関のポストを開けた。ブレーキの音さえしなかったが郵便物は来ていた。考えに熱中していてブレーキの音が聞こえなかったらしい。稲田速記と催眠術の分が来ていた。インチキ臭い。そのインチキ臭さがたまらなく好物なのだ。通信教育の教育内容よりも、誰がどんな顔をしてそいつを作ったのか……の方が面白いのだ。学費はどこに書いてあるのかが案内所作りの難しさだろう。いや、これは自分が金のことばかり考えているから、そう見えてしまうのかもしれん。しれた額でも通信教育生の学費で経営はやっていけるのか。と、ソロバンを弾く。やはり金が浮き世の世の中か。金のことばかり気になる。
 物の本質より、その回りが気になるんだ。周辺の方が目にちらつくんだ。で、それで、面白い部分というのは、その辺にきっとあるんだ。関係のないことまで勝手に強引に、関係づけてしまう悪い病気が人間にはあるんだ。そして、とりとめのない理論を、とりとめがあるように、とりまとめるんだ。
 お腹が減ってきたなあ。もうすぐ夕方なんだな。何か食わなければいけないなあ。めし屋へ行って食べるとしても、金がなければ貧しい食事しかできないなあ。外食なんだから贅沢に食べたいものを食べたいなあ。今は何が食べたいのかな。食べられる物なら何でも食べたいよ。やっぱりお腹が空いているんだ。
 明暗差が少なくなりだした夕方の町を自分は歩いている。めし屋へ向かって歩いている。あまり知的ではない。こだわりだすとバランスがおかしくなる。知的でなくても人間は生きられるものさ。町の細々とした風景は、あまりはっきりとは映っていない。どこを歩いてどんなものがあったかなんていう意識は絶無だ。理由は「お腹が空いたから」と単純に説明するほど意識は平面的でもない。「めしの中」と、自分は大中小にランク付けされたどんぶり茶碗の中間をめし屋のオバハンに注文する。何でも「中」とか「並」とかを押さえておれば目立たなくてよい。オバハンは商売だから大でも小でも出してはくれるが、大と小との差は、やはり存在し、且つまた意味付けされる。めし屋のオバハンに、自分という個人のパーソナリティーを読まれるのは鬱陶しい。なぜ「小」なのか。なぜ「大」なのかを説明するようなジェスチャーなりセリフを演じるのは面倒だ。その点「中」は楽でよい。
 質の悪い油を使っていた。天ぷらの盛り合わせというより、天かすの盛り合わせだ。めし屋の天ぷらは一生食べまい。しかし、自分の好物は天ぷらのようだ。特にエビの天ぷらには目が無い。しかし、食後は必ず胸が悪くなる。油は嫌いだが天ぷらは好む。なるほど、見えてきたぞ。
 自分というものが何者であったか……ということを忘れかけていたんだ、最近。そうか。自分は天ぷらが好きな人間だったのだ。いいぞ。この調子だ。自我というものを知らずして何をか語らんだ。では、なぜ自分は天ぷらが好きなのか。好きになったのか。うむ、そこだ。その線だ。その線を追えば自己発見が可能だ。自分が天ぷらを好きになったのは……。なったのは……。結局天ぷらが好きだったからだ。いけないなあ。これでは何の深淵も生じない。何の神秘もない。やめた。
 めし屋を出た自分は、何をしようかと一寸考えた末、よろよろと町中をうろついた。油っ気を消すにはコーヒーがいいという経験があった。ちょうど犬や猫が、ある種の草を食べるように。
 歯が阿蘇山の噴火口のようになっている。その中に天ぷらの残りが詰まっていた。自分は舌で思いきり吸い込んで、そいつを出そうとした。ぐっと吸った瞬間、脳が飛び起きたような痛みがした。神経の枝を吸い込んだのだ。自分はコーヒーどころの騒ぎではなかったが、喫茶店のドアを開けていた。不幸というやつはいつ何時何分何秒に襲いかかるのか知れるものなら知りたい。いや、しかし、突然襲うところがいいのかも知れぬ。あと何秒で痛い目に遭う、というのが分かっておれば、その間、おちおちしておれんもんな。不幸は突然襲うところが幸福なんだ。実にそうなんだ。しかし、歯医者へ行けば、はっきり痛い目に遭う……というのが分かるぞ。……いや幸福論などしておる場合ではない。歯が痛いんだ。コーヒーを飲もう。
 人間には、ドロドロとした部分があって、それを吐き出すことによって新しい何者かになれるのだ……と誰かが言っていた。コーヒーを飲みながら、自分はフトそれを思い出した。歯の痛みは、おかげさまで峠を越えている。二度と舌を阿蘇山の火口にさえ持って行かなければ平和が続くのだ。ドロの話をしよう。ドロドロとした人間というものは、うっ! しまった。イタイ。イタタアー。あれほど注意したのに舌が……舌が阿蘇山を……ううううん。ドロの話など、どっちでもよいわ。この痛みを何とする。明日歯医者へ行こう。
 その夜、自分は、布団の中で人生をしみじみと感じた。明日、たとえどんな目に遭おうとも歯医者さんに行って治してもらおう。歯さえ治れば日常の不幸など取るに足らんのだ。そう決心した。非常に清らかな心になった。素直な心になった。まっすぐ天井を見つめながら静かに眠った。
 明くる朝、管理人室の大家に金を借りた。「部屋代も払わんくせして、どの顔して金貸せ言うねん」自分は素直そうな顔をし、訴えるような目をして聞き流した。人格者と呼ばれる人間は辛いもので、出さなくてもいい金を出さねばならぬという不幸がある。ずぼらで怠け者を表札にしている自分は楽なものだ。
 百円玉を入れると三十五個の玉が出てきた。パチンコ玉だ。この玉で幸福になれる場合もある。なれない場合もある。なれない場合の方が、本当は多い。案の定、一発も穴に入らぬまま百円すった。二百円五百円千円と定着することなく台を移動する。千五百円目にして店を出た。歯医者代はまだ残っている。わざわざ好き好んで痛い目に遭いに行くバカがどこにいよう。しかし、痛い目に遭わぬと歯は治らぬ。
 渋々歯医者の玄関のドアを開ける。満員だ。奥の方でガーガーと例の音がしている。自分は受付のオバハンに、診察の手続きをやってもらおうとしたら、受付のカウンターでカウンターパンチを食らった。何がそうせしめたのか。しばらくは理解できなかった。
 歯医者さんを出た自分は市役所へ向かった。なぜ市役所へ向かったかというと、健康保険が必要だったからだ。保険がないと歯医者は診てくれないという。なぜ診てくれないのかはよく分からない。おそらく保険がないと料金が高く付くのだろう。その価格を聞いて、患者が怒り出すのを警戒してだろう。金ならいくら出してもよいから、この痛みを殺してくれと頼んでもだめだった。
 市役所でもカウンターを食らった。国民健康保険に入るのはいいのだが、部屋代ほどの金を月額払わされる。それに、何やら記入しなくてはならない。職業は二三日考えないと記入できない。保険がないと歯医者は診てくれない。その保険代が払えない。文化国家ではない。福祉など絶無だ。自分は目を潤ませて係員に歯の痛みと社会機構の不条理を、生々しい息で訴えた。係員は市民病院へ行けと言った。
 自分は市民病院へ走った。思想も社会風刺も忘れて走った。受付に立った自分はまたもや社会構造のガードに突き当たった。予約がないと診てくれないという。一ヶ月かかるらしい。しかし自分は、そのガードの上から、生々しい息を吹きかけ、顔をしわくちゃにして歯の痛みを訴えた。受付は「緊急処置」と言うことで白い紙をくれた。天ぷらが招いた不幸もこれにて一件落着となった。よかった。よかった。
 考えるに、暇だから歯の痛みが重大事件になるんだ。何か仕事をしている社会的人間なら歯の痛みなど、簡単に処置してしまうだろう。そうすると、社会人にとっての重大事件とは何かな。仕事のこと、人間関係のこと、何かな。何だろう。社会人イコールサラリーマンなのだ。他に活動家という一番嫌らしい人種もいるぞ。自分は活動家アレルギーなのだ。理由は生理的にだ。彼らが眉間にしわを寄せ、何かを語るその表情ほど嫌らしいものはない。ああイヤダイヤダ。サラーリーマンは屈辱的な可愛らしさがある。金のために働いているんだ。ものすごく分かりやすい。ちょうど大昔、狩猟をして何日分かの食料を得たのと同じように、通勤電車に乗って会社へ行くんだ。目的がはっきりしている。食うために働いている。それは正解中の正解なんだ。それに比べて活動家の目的には、まったく説得力がない。説得力がないだけ彼らは真剣な語り口をするんだ。どうでもよい人にとっては実にどうでもよいことを、どうでもあるかのように語るんだ。中にはどうでもいいようなバカな活動だと宣言しながら走る連中もいる。で、どうでもいいことだから、バカなことなんだからと、適当に付き合っていると、実はどうでもいいことではないと言い出すんだ。そして、もっと面倒なのが、活動家が語る意味の味だ。食べ物の味なら、辛い甘いとすぐ分かるが、意味の味はどうとでもなるんだ。だから活動家は意味を大切にするんだ。例えば無意味な意味とかの言い回しの世界が広がるんだ。頭が痛くなるんだ。努力してその意味の味を嗅ぎ分けても金にはならないところが活動家の偉いところらしいけど、自分にはその味が分からないなあ。そんなことより、歯の痛みを消してくれた市民病院の先生は偉いな。活動家は何の痛みを消してくれるのかな。胸の痛みを消してくれるのかな。胸の痛みなんて自分で治せるもんな。歯の痛みは自分では治せないもんな。
 一週間に二回、計四回通って神経を抜いてもらった。阿蘇山の火口にセメントが埋め込まれた。大家は「会社へ行って働いて部屋代と歯医者代を返せ」と言った。三時間ほど人生論を聞かされた。いつも同じパターンの人生論だった。面白くしようと少しはアレンジされていたが、ツンとくるほど臭かった。結局大家は人生論の語りに酔っているんだ。浪花節を唸るのと同一である。しかし上等の青柳と最中が出るのは楽しい。
 再び平和なホームゴタツの中で昼寝をする。寝るほど楽はなかりけれ。起きて働くバカもいる。観念の一点のみを見つめて生きもできず、数点見つけて、あれこれ迷い、果ては邪魔臭くなる。子供の頃、忍者になりたかった。闇に生き闇に死ぬ。今は何になりたいのか。一番楽なのがよい。楽しくなくてもよい。面白くなくてもよい。鬱陶しくさえなければ何になってもよい。しかしそんな職業を……。と探してもなかなか見つからない。見つからないから定職に就かないのではない。適職なんて結局ないんだな。無理に適職だと思い込む努力が足りないんだな。みんな、いつ、どこで、決心するのかな。「僕は大工になるんだ」……と声を出すにしても、声を出す裏打ちはどこにあるのかな。そういえば自分も「忍者になるんだ」……と声こそ出さぬが決心したことがあったな。待てよ、確か「忍者になるんだ」の前に、もう一つあったな。あれは……ええと……小学校の頃だった。そうそう、先生が「大人になったら何になりたいですか」と聞いたんだ。そのとき、自分は「テンノウヘイカ」と答えたよ。先生は「それはなれません」とおっしゃったな。自分は「努力して勉強したらなれるわい」と心の中でつぶやいたな。努力しても才能があってもなれないものがあるんだな。神様なんかもいいなあ。神になるか。神は職業かな。神主なら職業だな。
 トントンとドアを叩いて大家が入ってきた。また説教かと思えば、手に何か持っている。「これ食べなはれ」どういう意味かと考えていると「病気にでもなられたらかなん。わしゃそこまで世話ようしたらん。あんた最近だんだん顔色悪いし、顎も三角に尖って痩せていきようみたいやで」自分はドキッとする。思い当たることもある。何年か前からみぞおちのあたりがおかしい。脈を打っているのが外から見える。心臓病か胃病かは分からぬが、健康であるはずはない。風呂屋で、みんなのみぞおちを見ても脈を打っている様子はない。大家の一言で、自分は食欲をなくしてしまった。頭までボーッとしてきた。急に病気になった。歯が治ったばかりなのに何と言うことか。今度は内科だ。病院へ行けば医者はびっくりして直ぐさま入院だろう。ああ、自分はホームゴタツの中で痩せ衰え、じわじわと死んでいくんだ。自分はホームゴタツで寝ていても死の深淵に立っているんだ。
 夜中に目を覚ます。まだ生きていた。お腹が空いていた。インスタントラーメンを作る。インスタントラーメンばかり食って死んだ。という話がある。自分は何かかやくを入れて食べている。死ぬのが怖いからではなく、麺とスープだけでは淋しいからだ。玉子とモヤシを入れる。死を考えながら食べるラーメンの味は形容しようがない。スープを残して食べ終える。煙草を出す。煙草もいけないなあ。煙草をやめて太ったという話がある。嫌な夜を迎えてしまった。人生の一コマだと思えばいい。そんなこともあったなと、後で語れるように。しかし、語れるかな。笑えるかな。そういえば鼻もおかしい。蓄膿だ。正確には鼻茸だ。鼻の穴にキノコができているんだ。年中鼻詰まりだ。口で息をしている。片方の穴がたいてい開いているけど、日によって両方詰まる場合もある。しかし今日は詰まっていない。ラーメンを食べた後は鼻汁が出てくるからだ。しかし、困った。病気を気にすると余病まで思い出してしまう。キン玉の袋に出来物が二つできているんだ。まだある。まだまだ細かい病がある。いや、待てよ。意識していない症状が急に本命になるかもしれんぞ。そうだ。以前もそんなことを考えていたなあ。あのときは運動をして体を鍛え、スタミナのつく食事をした……一週間は続いたかな。腕立て伏せをしているときはものすごく気休めになったな。何か筋肉が厚くなって、そこに肉がつくぞ……と。続かなかったのはどうしてかな。邪魔臭くなったんだな。運動すると言うことが不自然なんだな。作為して筋肉をつけようとする根性が見えすぎているんだな。運動をしないと筋肉は発達しないんだな。運動をしない生活だと当然モヤシのようになるんだ。それでいいじゃないか。結局何かが命取りの本命になるんだ。何かで死ぬわけだ。自分はみぞおちに病巣があって死ぬかもしれない。若く死んでもそれは生理的な寿命で、その人のパターンなんだ。一回きりの全くのワンパターンだ。
 その晩は、朝まで一睡もできなかったので、起きたら夕方だった。「食べに来い」と大家が言うので、茶碗と箸を持って管理人室へ行く。ただで飯を食わせるはずはない。裏に何かある。胡散臭いが食欲には勝てない。
 食後、やはり裏を出してきた。「ええ会社があるんやけどな。どやろ」大家の発想が分からない。単純に見ると、親切で世話付きな老人だが、度が過ぎている。自分が働かないのはこの老人がバックにいるからだとも言える。「甘えの構造」というやつだ。老人も老人だが、自分も自分だ。「朝は九時からで、終わるのは六時や。日曜祭日は休みでな、まあまあやろ」本当に「まあまあ」だ。面白いことも何ともない。給料も「まあまあ」で、企業の規模も「まあまあ」だ。ご飯をいただいた手前、無下に断ることもできない。明日、面接に行くと言ってしまった。普段のボケた自分ならO.K.は出さなかったはずだ。気が弱くなっていた。非社会人のしんどさに疲れたのだ。「平凡な会社員でもいいではないか」平々凡々と社会の流れに乗っておる方が案外楽かもしれない。そして趣味を作り、エビの天ぷらを食べ、若いOLと結婚し、子供を作り、パパとなる。このコースも、このコースなりの楽しみが将来用意されているだろう。健康保険もあるし、定期診断も受けられる。よし、自分は健全なる社会人になってやる。
 風景が飛んでいく。カッターシャツの襟が首に食い込む。電車は都心へ都心へ。自分は社会人へ社会人へ。自動改札機をくぐる人の群れに自分も加わる。同じ社会人として。
 面接。面を接するか。大家の紹介なので試験はない。一応会社側の人と型通り会うだけだ。採用はほぼ決まっているらしい。今日会ってくれる偉いさんはどんな人だろうか。人当たりがよければいいが。眉間にしわがなければいいが。応接室で会うのだろうか。何を聞かれるのかな。鼻が詰まってたらどうしよう。それに吃るのもいけないな。
 喫茶店に入る。非社会人最後のコーヒーを飲む。トーストが付いている。朝なんだな、まだ。十時に会うんだったな。昼には帰れるな。昼は何を食べようかな。そうだビジネスランチを食べよう。その後パチンコをして映画を見て帰ろう。映画は楽しいのを見たいな。煙草に火を付ける。最後の煙草だ。
 すると急に行きたくなくなった。面接に行きたくないのか。社会人になりたくないのか。歯の痛みを忘れたのか。健康保険が欲しくないのか。社会人として平凡だが平和な生活が欲しくないのか。一歩じゃないか。あと一歩近付けば、普通の生活ができるんじゃないか。今日は面接だけで仕事は明日からじゃないか。帰りにビジネスランチを食べて、パチンコができるじゃないか。明日から仕事だとしても、会社が終われば町で遊べるじゃないか。
 喫茶店を出た自分は繁華街を通っていた。その先を右に曲がればビジネス街があり、会社がある。目の前が暗くなる。足が神経痛のように引きつった。心臓は健康な鼓動ではなく、脂汗が滝のように流れ、喉もカラカラだった。「社会人になると言うことは病人になると言うことである」……という結論を、強引に引き出すことに成功した。この説得力のある理論に支えられ、自分は映画館へ向かう堂々の行進をした。そして、その理論の正しさを証明するかのように、走ってみせた。人混みを駆け抜けながら、自分という人間に対して氷のような理性で自己解明を試みた。そして自分とは何者であるのかという長い長いホームゴタツ時代に終止符を打つ確実な答えを導き出したのだ。そして同時に、その答えは哲学史上に残るであろう名文句でもあった。自分はその名文句を口ずさみながら走りに走っていた。
 我走るが故に我あり。我走るが故に我あり。我走るが故に我あり。……。……。……。……。
 
   了

 この作品は1981年に漫金超四月号(チャンネルゼロ)に掲載されたものです。ほとんど修正はしていません。



2015年7月19日

小説 川崎サイト