疑似体験
川崎ゆきお
何かを見たり、聞いたり、体験したとき、それが何かに似ていると感じることがある。それは映画のワンシーンだったり、小説に出てくる主人公の行動に近かったり、歌の中に出てくる状景と似ていたりとか。当然実体験したものも、その中に入るのだが、結構バーチャルな疑似体験が多い。一人の人間が行ける場所など限られている。
また実際に体験したはずのことなのだが、よく覚えていないことがある。何があったのかは覚えているが、そのときの状景などは、曖昧だ。そんなものを見ているゆとりがなかったとか。
それは町でも町内でも同じだ。意外と外の人間の方がよく知っていたりする。観察するものが違うためだろうか。また、改めて自分の町など把握していなかったりする。外部から来た人の方が、そこを専門的にと言うか、しっかりと見て回っている。例えばすぐそこにある場所だが、用事がないと行かない。そして、そんな用は殆どない場合、知らない場所と同じだ。
そして、自分の町内はよく知らなくても、よく立ち寄る町の方が詳しかったりする。灯台下暗しのようなものだろうか。 それらは体験だが、自分が体験したことのないことの方が詳しかったりする。
よく、本当に体験していないと語れないと言うが、体験していないから語れることもある。体験者が語れないのは語りたくないためもある。
実感がこもっているかこもっていないかの差はよく分からない。これは話し方にもよる。語る人が非常に上手い場合、もの凄く実感がこもっているようにも見える。その程度の演技はできるだろう。演技ではなく、自然に感情移入してしまい、自然な演技になるのだろう。だから、演技ではない。またへんに感情を出さない方が本当らしかったりする。
そのことは体験していなくても、それに近い、または類する体験があるのだろう。ここは個々の具体例ではなく、ひな形があるようだ。
貴重な経験をした人は、そうでない人に軽く語らせたくない。言っていることは同じでも、体験した人間でないと語れないような言い方や表情になるらしい。
しかし人間の感情の振り幅や種類はそれほど多くはない。犬や猫が使う言葉のような鳴き声程度に。
そのため、大まかには合っているのだが、細かいニュアンスが違うと言い出す。これは体験したかしないかで微妙に違ってくると。
大まかには合っているのだが、分かっているか、分かっていないかの違いのようになる。つまり、実体験者でないと分からないと。
実際に体験した人の方が、そのときの様子を知らなかったりすることもある。
実体験したことも、ある意味バーチャルっぽいことだとは言わないまでも、体験や経験は絶対的なものではなく、これは結構偏りがあるように思える。それは、あとで人に聞かせるため、その状況を細かく観察するとかをしないためだ。それどころではないのだろう。
少し引いて話すと、実感がこもっていないと言われるかもしれない。引き気味に話すのは、細かいことを言いたくないとか、自分のそのときの感情を人に知らせたくないとかもある。
当然、そういう体験談は、聞かせる相手によって演出を変えてくる。当然年月の流れで、歴史書のように、今に合わせてくることもある。語りなど、実にいい加減なものだ。
了
2015年7月29日