小説 川崎サイト

 

萎縮した世界


 人は萎縮すると、小さな話になる。つまり個人的な。
 別の言い方ではプライベートな、になるが、そんな大層なものではない。個人的な話とは、その個人だけにしか分からない、または関わらないようなローカルな話だが、それ以下のさらに小さな話もある。トイレットペーパーを一度にどの程度の長さで切るとか、耳の穴を拭くときは左側からで、穴の奥からとか。
 ただ、小さな話は萎縮したときに、メインになったりする。萎縮とは、範囲が狭まることだ。この範囲は世の中との関わりとも絡んでいる。つまり仕事もなく、対人関係も少ないと、個人の天下になる。普通はその上位に、色々と面倒なものが繋がっており、そちらが実は個人よりも上位だったりする。その中では個人など小さな存在にすぎない。しかし萎縮すると、上の天井がなくなったり、左右の壁も消えたりする。自分が王座に座ったような気にはならないものの、小さな王国ができる。これは個人主義とはまた別で、主義とは言いがたい。萎縮した世界では快不快程度の原理ぐらいだろう。これは主義主張に変えてもいいのだが、実際には気持ちがいいか悪いか程度、気に入るか気に入らないか程度の、単純な感想でしかない。その感想以前の肌に合わないとか、好みではないとか、性に合わんとか、その程度のものだ。
 ただ萎縮した世界では大きな望みは無理だ。何故なら一人ではできないからだ。
「ほほう、萎縮ねえ」
「悪いでしょ」
「悪いねえ。いい言葉じゃない」
「夏場はこれです」
「それで涼しくなるの?」
「なりませんが、動きがそれだけ小さくなります。これだけでも体力温存です」
「それで、何を萎縮するのかね」
「縮んでいるだけです」
「縮んで籠もるということかね」
「そうです」
「具体的には」
「極私的なことをします」
「既に君、やっているじゃないか」
「え」
「君は自分のことしか考えていない。だから、既にやっている」
「さらにです」
「ほう」
「だから、これはもう萎縮です」
「さらに自分のことで凝り固まるわけか」
「はい」
「まあ、いいけど、やらなければいけない仕事はやってもらうよ」
「ああ、はい」
「そんな個人の自由を盾にしても無駄だからね」
「あ、はい」
「自分さえよければいいというのは普通だ。面白くも何ともない。当たり前の話だ。だから、もっと気の利いた言い訳を作ることだね」
「これは自己主張でして」
「そんなもの聞き飽きた。要するに痛い目に合うのがいやなだけだろ」
「あ、はい」
「そんな自己防御じゃ、防御にならん」
「だめですか」
「だめだめ」
 
   了







2015年8月5日

小説 川崎サイト