小説 川崎サイト

 

小さな文壇


 とある表現者集団、サークルだろうか。創作者グループとも呼んでいる。さらにクリエーターサークルという人もいる。これを内部から言っている団体は、さほどの集まりでもなく、またメンバーもたかがしれている。恥ずかしくて、そんな言い方をしないということもあるが、今や誰でもが表現者であり創作者なのだ。そのため、敢えてそれを名乗るとなると、余程レベルの差がなければいけないのだが、最近その違いは素人目では分かりにくい。
「この作家の文学論は非常に良いんだけど、作品はさっぱりなんだ」
「ありますねえ。楽屋裏を語りすぎた場合、そちらのほうが面白いし、いいこと、万と言えますからねえ」
「評論家ならいいけど、実作家だと言っていることとやっていることの違いがよく分からない」
「ああ、そうですか」
「内側で色々と創意工夫が成されていて、そんなところまで考えながら書いているのかと思うのですが、それがよく見えない、読み取れない」
「はあ、そこが文学の奥深いところでしょ」
「この前衛画家の場合もそうです。言っていることは凄くスケールが大きく、また深いところまで掘り下げた情念論は素晴らしいのですが、それでできた作品がこれか、なのですね。そのつもりで見ると、そう感じられないこともないですが」
「何でしょうねえ」
「この写真家もそうです。普通の写真はいいのですが、アートとして写した写真はさっぱりです」
「それは見る側の感性ですよ」
「あ、そう。続けますが、この演技が凄いという俳優。哀しく苦しい状態を演じさせれば世界一らしいですが、小便が出そうで、早くしたいというときの表情とあまり変わらない」
「それは」
「まあ、それは言いすぎですがね。それらはですねえ。結局錯覚を上手く利用しているのですよ」
「ほう」
「泣いている顔と笑っている顔、似ていたりします。声を立てなければね。だから、笑い声を立てないで笑うと泣き顔に見えます」
「ほう」
「だから、決して感情移入しないことですよ。むしろ逆の感情パターンの顔に持っていくほどのことをしないと。あとは錯覚で、前後の文脈で、そう見えるのです。これが複雑な感情表現、繊細な演技になります。決して感情移入し、なりきってしまえば、そういうものは出ません。何故なら、素に近いからですよ」
「はあ」
「泣いている顔では、泣いているだけの顔になるでしょ」
「それでいいのでは」
「それじゃ奥行きがない。錯覚のしようがない」
「文学ではどうですか」
「下手に物知りだと書けないんじゃないですか。下手の見本市に陳列品を増やすようなものでしてね。知識がありすぎて、単純には書けない。また、誰かの真似を恐れ、一行も書けなくなる。禁じ手ばかりが気になりますからね」
「最近の僕の小説は如何ですか」
「すみません、読んでません」
「ああ、そうですか、よかった、僕もあなたのは読んでなくて、もしその話題になったとき、どうしようかと」
「安心して下さい。私も読んでいないのですから、お互い様です」
「はい。やはり人の小説ってつまらないですねえ」
「そうでしょ。文学論は楽しいのですが、本編を読むのは苦痛です」
「その点、このサークルはいいですねえ」
「しかし」
「何ですか」
「最近の人の小説などもう何年も読んでいないので、少し心配になってきました」
「評論は」
「読んでます。それで何となく、分かった気になります。錯覚というか、評論を読んで、おそらくこういう小説だろうなと想像するだけでいいのです」
「ここでも錯覚ですか」
「あとは、個人個人が、その錯覚を料理すればいいのですよ」
「はい、心がけます」
「しかし」
「何ですか」
「要はネタですよ」
「あ、そうですか」
「ネタを反対から読むとタネでしょ」
「はい」
「いや、それだけです」
「よく分かりませんが」
「文学的でしょ」
「それはただの……」
「ただの?」
「言葉遊びかと」
「それが文学の原点でしょ」
「あ、そうでしたか」
「私は素人などで、よく分かりませんがね」
「違うと思いますが、参考にします」
 
   了

 




  


2015年8月20日

小説 川崎サイト