小説 川崎サイト



あるマップ世界

川崎ゆきお



 病んでいるときに展開される領域がある。健康なときには入り込まないような世界だ。
 確かにそれは世界で、世界には限界がある。だからこそ世界観が出来る。
 村瀬は退院後、その世界を彷徨っていた。特に目的はないからだ。あるとすれば無理をしないでしばらく過ごすことだ。その条件で世界が組立っている。
 再発すればまた入院になる。まだ無理は利かない。
 村瀬は普通の生活に戻れたのだから、それだけでも嬉しいはずだ。病院内だけの患者世界よりは遥かに自由が利く。
 村瀬は既に老いており、先に何か目的があるわけでもない。一人暮らしの年金生活者なのだが、食べていけるだけの蓄えはある。
 村瀬は一日中テレビを観て過ごした。自宅でのんびりと古い映画を観るのを趣味にしていた。
 しかし、医者から運動を奨められていたので、近所を歩くことにした。
 最初は気が進まなかったが、町内を歩いていると、いろいろなものが目に入る。それを眺めるのも悪くはないと思うようになった。
 今まで入り込んだことのない枝道や路地や、人の家の庭先をコースの中に取り込んだ。
 村瀬が世界と思っているのは、この周遊コースのマップのことだ。
 その地図は村瀬だけが把握している独自の世界で、小さな祠が集まっている場所は聖地であり、大きな排水溝は港だった。
 モダンな新興住宅地は居留地で、高層マンションは捕虜収容所だった。
 村瀬は侍姿の用心棒になったり、保安官になったり、旅の商人になったりした。
 自分が知っている世界をそのまま現実の町内に重ね合わせているのだ。
 このレイヤーやフィルターは毎日変わる。いずれも、さっきまで観ていた映画やドラマやドキュメント番組が元ネタになっていた。
 村瀬は月に一度通院している。その日だけは市バスで病院まで行く。そして医者から薬をもらう。村瀬が人と喋る機会は医者だけで、それ以外は滅多に声は出さない。
 会話する相手が欲しいわけではない。必要最小限のことしか喋らない。
 それから二年経過した。
 病気は再発しなかった。
 もう、町内のオリジナルマップ世界から離れてもよくなったのだが、今日もまたマップを更新し続けている。
 空き家を見付けたので、そこをアジトと名付けた。
 
   了
 
 



          2007年2月18日
 

 

 

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