小説 川崎サイト

 

曲解夢


 子供の頃に思っていたようなことは、大人になるまでの間に達成したり、当然大人になってからも果たしていることが多い。ただ行き場のないイメージがある。これはあくまでもイメージで、現実のものではない。達成しようにも、そのものがないのだ。これは子供の頃抱いた間違ったイメージだろう。想像した世界のためかもしれない。
 そういう妄想に近いものは、大人になる前に、非現実であることが分かり、諦めるというより、修正するのだろう。ただ、これが曲者で、ありもしない、または成立しないような夢を追いかけることがある。
 現実的なものは達成されて、消えてしまう。それが年寄りになって、やっと達成できることもあるが。
「童心ですか」
「子供心です」
「じゃ、幼稚な」
「まあ、そうです」
「それが?」
「幼いというか、よく知らないで考えたり、思ったことなので、これを大人になってからやると、周囲が迷惑します」
「そうですねえ」
「そういう幼心や、少年少女の夢のようなものは、我慢するのが礼儀なのですが、ここに、その人の素があったりします」
「青春時代の面影が年を取っても残っているようなものですか」
「そうです。もっと古い階層の、幼い頃の面影です。こちらの方が根としては深い」
「はい」
「パニックになったとき、その取り乱し方が、その頃のままだったりします」
「子供っぽくなるのですね」
「大人の殻が破れてしまうのでしょうねえ。まあ、そんなパニック状態じゃなくても、子供っぽい大人がいます。私は苦手です。子供の心を持った大人です。これは私は褒め言葉ではないと思います。それが子供が持つ直感で、本質を見抜くとかならいいのですが、子供の頃の錯覚を持ち込んだ発想は怖いですなあ。現実には有り得ない妄想に近いものがあります。それに大人になったのだから、そこは修正しないと、フェアーじゃありません。子供は狡いですからね」
「子供がお嫌いで」
「そうです。しかし、その子供心を分からないように忍ばせている人なら大丈夫です」
「忍ばせる?」
「子供のようにとんでもないことを言わない程度の礼儀があるかどうかです」
「子供心とは何でしょう」
「遊びでしょ」
「はあ」
「ままごとはモデルがあります。大人になれば、そのモデルのままごとを実際にできます。土まんじゅうのオムスビではなくね」
「はい」
「ところが子供が思い違いしたものは、モデルがそもそもないのです。だから達成できません。これは行き場がないので、どう変換すればいいのかが分からない。どう変換しても誤変換になります。元の現実がないのですからね。子供が見た夢のような世界ですから」
「少し、興味深いです」
「そうですか。大いに興味深いと思います。この行き場を失った夢のようなものを、どう変換するかでしょう。子供が欲したこの欲、これは欲深いものです。つまり根深い。実は、ここはエネルギーの発生場所でもあるのです」
「そんなこと、思いもしませんでした」
「その人が表情を崩したとき、子供の素が出ます。しかし、それはかなり動物的なものでしょうねえ」
「幼い頃より抱いていた夢とは違うのですか」
「それは、現実にあるネタに限られます」
「はい」
「人が有り得ないものを望むのは、子供の心から来ているのでしょう」
「現実に可能な夢でも、不可能な夢もあるでしょ」
「それは変換しやすいのです。代わりのもので何となく収まります。しかし、最初から有り得ないもので、その子だけの曲解夢だった場合、変換が難しい」
「あまり思い当たりませんが」
「それほど奥にあるのです。このエネルギーは、そのため、本人も気付かない」
「そういうお話しそのものが、曲解夢のように思えますが」
「私の児童心理学がですか」
「そうです。そんなもの有り得なかったりしそうです」
「それは手厳しい意見ですねえ」
「あ、失礼しました」
 
   了




2015年10月8日

小説 川崎サイト