小説 川崎サイト

 

日常の振幅


 昨日と同じことを今日もする。これは平穏な証拠だが、たまに妙な用事が加わり、昨日と同じように行かないこともある。それが一時間とか二時間程度の用事なら、戻ってからその時間昨日やっていたようなことをする。これでいつもの日程に途中から戻れるのだが、半日取られた場合、結構予定が狂う。
 吉本は最近それに気付いたのだが、何故そう思えるのかを考えてみた。そんなことを考えるだけ暇なのだ。そしてその暇が全ての答えだったりする。
 吉本は隠居なので、もう何もしていない。そのため日々のことは別にしなくても構わないわけではないが、大した用事ではない。そして大事な用事、これは仕事関係だろう、それを日々やっていたわけだ。それがなくなってから時間が余ってしまい、一日暇で暇で仕方がない。そこで暇潰しの用事をこしらえたわけだ。その用事を毎日毎日繰り返している。
 無為なことを毎日やっているわけではないが、何とでもなるような用事だ。これは日々繰り返すことで安定する。おかげで暇が潰れ、逆に忙しいほど。
 そんなとき、昨日と違う用件が入ると、妙に落ち着かない。これは予測できないためだろう。日々の用件なら大体分かる。これをすればこうなるとか。そして、それらは重要なことではないので、中身も軽い。
 若くて元気な頃は、日々同じことの繰り返しが苦痛だった。そのため、別の用事が入ると喜んだ。いつもと違うことができるためだ。
 ところが吉本は退職してからいつもと違う行為がプレッシャーになっている。小さな変化ではなく、大きな変化が起こる可能性があるためだ。
 暇なとき、用事が入ると、暇潰しでいいのだが、その暇がふさがっている。これは日々の暇潰しというか、暇の耕し方が上手くなり、今では暇だからやっている行為ではなくなっている。昨日と同じことを今日もする。もうそれだけで満足を得てしまう感じだ。その一つ一つは大したことではないので、ただの惰性のような繰り返しだが、それが上手く回っている。
 日常とは、日々何をしているかだろう。旅人の日常は起きる度に枕が変わっていたりするので、場所や用件ではない。自分という世界の範囲内での出来事かもしれない。それが連続していても、非連続でもかまわない。個人の振り幅内でのよく慣れた振幅のことだろう。
 
   了




2015年10月28日

小説 川崎サイト