小説 川崎サイト

 

辿り着けない喫茶店


「夢の中に出て来る喫茶店があるのです」
「はい」
「昨日もその夢を見ましてね。喫茶店の夢はよく見ます。実際に行ったことのある店、よく行く店でしょうが、かなり昔です。今はもうないかと思われます。それが夢の中に出て来るのです」
「夢の中に昔あった喫茶店が出てくるのですね。昔の思い出が夢の中で出てくるのは珍しいことじゃありません」
「夢の喫茶店なのです」
「え」
「だから、夢の中にしかないような喫茶店でして、これはモデルがあるのでしょうが、何となく分かりますが、何処のどの店だったのかまでは明快でない」
「いえいえ、だから、そんなもの解明しなくても別状問題ないでしょう」
「そうなんですが、気になりましてねえ」
「はい」
「その喫茶店は隙間にあるビルにあります。雑居ビルの通路の奥の二階にあります。通りからも覗けます。踏み切りを渡って左側にあります。駅も分かっています。しかし、今はそこは何もありません。駅前開発ですっかり様変わりし、それがあった場所が特定出来ないのです。駅の一部になったのか、駐輪場になったのか、あるいはそこではなく、別の場所だったのか、それが分からないのです。これは若い頃、そこに派手なネオン看板のある喫茶店があったことを記憶している程度かもしれません。一度入ったか、または入らなかったか、それさえも曖昧なのです。あるいは別の場所にある全く違う喫茶店が入り込んでいる可能性もあります。さらに実際には入らないで、今度入ろうと、見ていただけの店かもしれません」
「困った問題じゃないでしょ」
「そうですが、思い出せるのは店の人です」
「店の人」
「そうです。バイトか何か分かりませんが、座ると必ず出て来ます。これは何度か行った喫茶店に限りますが、店の中よりも、ウエイトレスと組みになっているのです。そのウエイトレスに興味があったわけじゃないですよ。店の雰囲気をそれで覚えいるのでしょう。また、昨夜見た夢では、どの喫茶店に入ろうかと迷っているうちに、見知らぬ町に入り込んだのです。これも記憶の何処かに残っている風景だと思いますが、かなり古い。今風な歩道の脇に古い街並みへと続く坂道がある。そこへ上がろうとしました。しかし、その先には喫茶店はない。それで引き返すと、今度はまた街が変わっています。そして複数の喫茶店が候補として出て来ます」
「候補」
「どの喫茶店に入ろうかと思い出しているのです。この夢は喫茶店に入った夢ではなく、喫茶店に入るまでの夢です。夢の中でも、もう消えてしまった店もあります。あの店はまだ残っているだろうかと思いながら、彷徨っています。夢の中でも死んでいる店があるのですね。そして、入ったときの記憶が出て来ます。店の名は分かりませんが、場所は何とか分かります。先ほどの踏み切りを渡って左側にある雑居ビルの二階にある店とか。これはは入った覚えはないのか、または別の店だったのかは分かりませんが」
「それは先ほど聞きました」
「はい。何せ夢の中の話なので曖昧なのです。こうして語っていても、夢の通り話しているかどうか、自信がありません」
「はい」
「昔、何かの都合で、入ったのでしょうねえ。よく行っていた店があります。遅い時間です。そこに入って考え事をしたり、寛いだりしていました。その頃が懐かしくてねえ、夢の中だとそれが出て来るのです。実際に夢の中で、その店の中に入り、座っているんじゃないですよ。夢の中で、昔の喫茶店を思い出している夢なのです。そのため、辿り着けません。喫茶店の数は結構あります。どの店へも辿り着けないのです」
「夢の中での話ですからねえ。ストーリーをリードできないのでしょ」
「そうなんです。もどかしい限りです」
「それで、その夢はどうなりました」
「何ともなりません。昔入った喫茶店をちらつかせている程度で、結局街を歩いていただけの話でした。やがて、もう喫茶店は出てこなくなり、別の話に持って行かれたところで、目が覚めました」
「はい」
「長々と聞いてもらえて有り難いですが、私が感じたことを伝えきれませんでした。昔の喫茶店の思い出話や、街の古い記憶を辿った夢じゃないのです」
「過ぎ去ったものにはもう帰れません」
「そうなんです。あの場所へはもう二度と帰らないでしょう。しかし、興味本位で、一度覗いてみたい気は少しあるのです」
「はい。では、私が三日前に見た高尾山で迷い込み、天狗に合った夢を」
「あ、結構です。もう帰ります」
 
   了


2015年11月16日

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