トイレで消えたお父さん
「お父さん大丈夫、お父さん大丈夫」
吉田は今もこの声が深いところから聞こえてくる。何日か経てばもう忘れてしまうはずだが、意外とすぐに忘れた。
「お父さん大丈夫」と言っているのはお婆さんで、お父さんとはお爺さんのことだろう。そのお婆さん、結構な年齢で、所謂老婆だ。その連れ合いなのだから、お爺さんも相当な年だ。
場所はトイレの前。階段を挟み左右にトイレがあり、右端の壁際にも一つある。こちらは扉が大きいため、多目的トイレだろう。お婆さんはそれらのトイレのある手前に立っていたのだが、お爺さんが出てくるのが遅いため、心配して男子便所のあるドアの前で「お父さん大丈夫」と何度も呼びかけたのだ。それを、トイレに向かっていた吉田が聞いていた。
場所は大きなショッピングモールの一階。その日は冬物バーゲンで、臨時のバーゲン台が並び、一寸した縁日の賑わいだった。
「大丈夫ですか」吉田はお婆さんに声を掛けた。当然だろう。
「気分が悪くなったと言ってトイレに入ったのですが、出て来ません。もうかなり経ちます。中で倒れているんじゃないかと」
「分かりました、見てきます」
吉田がドアを開けると、出てくる中年男とぶつかりそうになった。まずは右に洗面台があり、突き当たりは個室、左側に回り込むと便器が並んでいるが、三つしかない。個室も三つだ。小便用には一人立っているが、老人ではない。
個室の一つは閉まっている。田中は開いている個室二つを丁寧に見た。ドア側の内側も見た。つまり、ぐるりと個室内を見回したことになる。二つ目の開いている個室も同じように。
そして、閉まっている個室をノックした。すぐにノックが帰って来た。
「大丈夫ですか」
「え」
「お体大丈夫ですか」
「すぐ出ますから」
「あ、はい」
お婆さんも心配して、男子トイレに入って来ていた。洗面台の前だ。
そして、ジャーと流す音のあと、ドアが開いた。若い男が出て来た。
「お父さんはいません」
「そんなはずは」
お婆さんは自分でも調べているうちに、用を足しに来た人が一人、二人と入って来たので、廊下へ戻った。
「お父さんが消えた」
「いませんねえ」
「そんなはずはありません」
「でもいませんよ」
「どうしましょう」
「警備員か、誰か呼んできます」
「お願いします」
田中が警備員を連れてきたとき、お婆さんは立ち尽くしたまま、ぼんやりとしてた。
「お婆さん。連れてきましたよ」
「有り難うございます。お爺さんがトイレで消えました」
吉田から事情を聞いていた警備員は調整中と書かれた立てボードを持ってきており、それをすぐに男子トイレのドア前に立てた。
トイレには窓はなく、ドアは一つ。しかし個室のドアもあるが、その中には当然窓はない。
「お父さん、大丈夫」お婆さんはまた呼びかけた。
警備員はもしやと思い、隅の方に立った。洗面台の横だ。それはドアに見えないほど細い。
警備員は鍵の束から清掃用具入れの鍵を探し出し、カチリと開けた。
「お父さん」老婆が叫んだが、掃除道具が入っているだけで、人が入るには、道具類を出さないと無理だろう。
「本当にお爺さんはトイレに入ったのですか」
「入りました」
「出て来たんじゃないのですか」
「ずっと、この前で待ってました」
「あ、そう」警備員も、消えたとは認めたくない。そんなことが起こったとすれば、大変なことだろう。
「お母さん、どうした」
と、急に後ろから声が聞こえた。
「あ、お父さん、大丈夫」
「ああ大丈夫」
消えたお父さんが出て来た。しかも後ろから。
「お母さんがいないので、随分探したよ。バーゲンに戻ったんじゃないかと思い、ずっと探していたんだ」
問題はお婆さんだ。
お爺さんは気分が悪くなったので、トイレへ行き、用を足して顔を洗うと、体調は戻ったようだ。冬で寒い日なのだが、暖房が効きすぎ、それで気分を悪くしたのだろう。そして、男子トイレのドアを開け、廊下に出ると、お婆さんがいない。先ほどバーゲンで、非常に丈の長いダウンジャケットを買うかどうか迷っていたのを思いだし、それを買いに行ったのかもしれない。このお婆さん、待ち合わせていても、よくウロウロする人で。じっとしていない。しかし今回はじっとしていた。
お爺さんがトイレから出たとき、お婆さんは廊下で立っていたのだ。ところがトイレへ出入りする人達が死角を作ってしまった。お婆さんは隠れたわけではないが、お爺さんの視界にはなかったので、さてはバーゲンへ行ったなと、追いかけたてしまった
お婆さんも、男子トイレへ入る人や出る人に目を邪魔され、お爺さんが出て来たことに気付かなかったのだ。お爺さんは意外と早く出て来ており、なかなか出てこない状態なら、もっと注意して見ていただろう。
「お父さん、大丈夫」
「ああ、大丈夫だ」
大丈夫とは、非常に元気で丈夫な人のことだろう。
了
2015年11月22日