小説 川崎サイト

 

酔生夢死


 人の気分は天気のように変わりやすい。これは天然自然でいいのだが、これをやり過ぎると気分屋と呼ばれ、不安定な人のように思われる。そのため、気分が変わっても、隠していたりする。そんなそぶりを見せなければ、気付かれないためだ。しかし、天気の移り変わり、流れのようなものは気分の上では生じているわけで、これは意外とコントロールしにくい。
 今まで意欲的だったものがそうではなくなったりするのは、晴れの日が続くと、そろそろ雨が欲しいと思うためだろうか。気運というのがあり、これは動きやすい。自発的なものではなく、運なので、どこからか運ばれてきたチャンスのようなものだ。天の導きのように感じたりするが、その気運に乗りたい何かがあるためだろう。
 これはただ単に退屈な日々を送っていると、刺激が欲しくなり、それだけの理由で乗ることもある。これは正しい理由かどうかは分からないが、目的が退屈凌ぎだとすると、あまり褒められたことではないが、実際にはこのパターンが一番多いだろう。
 一朝事が生じたときでないと活躍できない人もいる。平常が覆されるような異常時だ。この異常事態、非常事態というのは退屈な人にとって天からの雨だ。恵みの雨かもしれない。いずれも個人的な事情が繁栄しているため、それを隠すため、大義名分を欲しがる。
 低レベルな話としては、何かをしていないとまずいので、とりあえず何かをする程度で、その何かがやりたいわけではない。さらに低いレベルでは、何でもいいから何かをしたいのだが、それさえもできない人だ。この何かは何処に繋がっているのかというと、社会的に価値のある方面だろう。それを外すといくらでもやることは思い付くし、すぐにでもできるのだが、社会的価値は低い。
 また、本当に社会的に有用なことは、地味で面白みがなく、華やかさもなかったりする。これは仕方なくやっているようなもので、やりたいことではなかったりする。
 と言うような問答を、学生アパートで、上田と橋本が話し合っていたのだが、それから五十年経過している。
 もう既に二人とも、人生を使い切っているのだが、未だにその話の続きをやっているのだ。これは非常に長い付き合いなのだ。
「さて、何をするか」と言う上田に対し、「やること、決まりましたか」と橋本が応える。
 二人とも学生時代のままで、根本的な発想方法は変わっていない。
「この年になると、時間切れか、ドクターストップだ」
「そうだね。僕は一年計画を一ヶ月計画に変えたよ」
「僕は三年計画を一年計画に変えた」
「そうだね、十年計画は考えるだけで怖い」
 未だに何かをやろうとしているのだが、二人共酔生夢死で終わるようだ。
 しかし、二人とも意識していないが、結構色々と優位なことをやってきたはず。その価値に気付かないだけかもしれないが。
「酔生夢死」
「ああ、それがあった。そのパターンは公認だ」
 
   了





2015年11月24日

小説 川崎サイト