小説 川崎サイト

 

ツタが絡まる窓


 岸本は写真撮影の趣味を持ってから、ものがよく見えるようになった。それは望遠レンズで見るため、よく見えるとかではなく、観察眼だ。ただ、これには目的がない。何のための監察かと問われると、特にない。
 ものがよく見えるようになったのは被写体を探すためだろう。ただ、岸本は写真撮影には殆ど行かない。日常の中、立回り先で写している。
 その日も住宅地の車の少ない道を歩きながら被写体を探していたのだが、よく通る道沿いなので、特に変化はない。写したいと思えるような物件は既に写しており、通りが様変わりでもしない限り、ここにはもう魚はいないのだ。
 そうなると、雑魚でもいいから、残っていることを期待し、さらに注意深く観察する。
 そして見付けたのが庭木だ。この通りは一戸建ての家が多く、狭いながらも庭木が茂っていたりするが、垣根などは綺麗に手入れされている。高い目の木も、家の者か、植木屋かは分からないが、盆栽のように丸く刈られていたりする。その中で、枝が伸びている木があった。この家は手入れをしていないのだ。さらに窓にツタが絡んでいる。窓硝子に少しかかっており、これは日除けや目隠しにはいいのかもしれないが、庭木と同じで、手入れしないまま放置したため、ツタ屋敷のようになりかけていた。ここは空き家かもしれないが、だからといって泥棒が入り込んだり、ホームレスが入り込んでいるわけではないだろう。
 岸本がこのツタ屋敷、庭木の荒れ方に気付いてから二年が経過している。よく通る道筋なので、たまに見ているため、二年では変化は分かりにくい。これが二年後に見たなら、違いが分かるが、途中も見ているため、徐徐の変化は気付きにくい。
 庭木が伸び放題の家は、ここだけではなく、またツタが絡まった壁のある家も、ここだけではない。よくある光景なのかもしれないので、特に言うほどの発見ではない。
 当然、そのツタ屋敷の壁と窓に絡まる風景を何度か写したことはあるが、いつもここを通るとき、ツタ屋敷は逆光で、あまり良い写真にはならない。被写体はあっても、写しても何ともならないような写真になる。
 しかし、このツタが絡む……で色々なことが思い出される。ツタが絡まる古い教会とか、ツタが絡まる女学校の図書館とか。すると、目の前のツタ屋敷ではなく、思い出の中のツタに纏わる風景が現れてくる。写すネタがないときは、それらを見ているのだが、これは写せない。
 カメラを持たないでこの通りを歩いていた頃は、風景など見ていなかった。別のことを考えながら、または漠然と歩いていたのだ。それがカメラを持ち出すようになってから、被写体を探すことが目的になったため、目に入る実物の風景をよく見るようになった。
 当然、もうここでは写すものはないのだが、雨が降れば路面の水たまりにツタ屋敷が映っていたりする。建物などにはあまり変化はないのだが、天気は変化し、光線状態は変化する。
 そして四年目の秋、ツタも紅葉する頃、ツタ屋敷が動いた。家が動いたわけではなく、中に動くものがあった。それはツタが絡まりすぎて窓を覆いすぎているのだが、それでも窓は見える。そこに動くもの。これは誰が考えても人だろう。住人だ。空き家ではなかったことを四年目でやっと確認できた。
 岸本は、窓を注視したが、もう動くものはない。住人だと思うが、そうでない可能性もある。本当は空き家で、持ち主がたまに見に来ているのかもしれない。
 しかし、岸本の妄想では、それは人間だとは限らない。
 というようなことを、岸本はカメラを持ち出すようになってから、風景の楽しみ方として手に入れた。
 
   了




2015年11月25日

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