小説 川崎サイト

 

ぬるいコーヒー


 岸和田はセルフサービスの喫茶店で、ホットコーヒーを注文し、レジでトレイで受け取り、いつもの席で飲んだ。特に語るほどのことではない。店も珍しくはなく、コーヒーもいうほどのものではない。だから何も変化はないのだが、実はある。
 それはコーヒーの温度だ。その日はやけにぬるい。いつもは焼けるほど熱いのだが、そうではない。これはフラスコのような透明な容器にある程度溜めており、その最後になったのだろうか。それでぬるい日があるが、月に一度程度。
 それを口に含んだとき、これだと感じた。この温度が飲み頃ではなかったのかと。コーヒーの味や香りを味わう前に、熱いが先に来ていたのだ。
 それで、家でお茶漬けを作るとき、ヤカンで沸かすのだが、沸騰した湯を注いでいた。熱湯だ。それほど熱くなくてもいいのではないかと思い、その後、沸騰前の湯を入れるようにした。その方が早いためだ。沸く手前でガスを切るだけのことだが。
 沸点は百度のはず。百度はいらなかったのだ。八十度でいい。
 お茶を飲むとき、電気湯沸かしポットを使っていたが、これも保温状態は八十度ほどだったと記憶している。ただし、一度沸騰するが。
 岸和田はぬるい目のコーヒーのおいしさを知った。その店では熱い場合が多いのだが、テーブルに運んでから、少し待てばよかったのだ。
 これは何かで応用できないものかと岸和田は考えた。一度良い思いをすると、それを他のシーンでも使いたい。ただ、ぬるい目が何でもかんでも良いわけではない。
 その証拠に冬の日のお茶漬けでは熱湯の方が好ましい。なぜなら、冬はひやご飯が冷たすぎるため、熱湯を入れてちょうどになる。これがぬるい目の湯だとお茶漬けが冷たかったりする。
 炊きたてのご飯はどうだろう。湯気が上がっているような。しかも固形物だが、これは熱くてもかまわない。熱いご飯をフーフー吹きながら食べるのが好きなためだ。ただし、味噌汁の熱いのは好まなかったりする。やはり唇が付けられないためだろう。魚のような唇が必要だ。岸和田は猫舌ではないが、舌に行く前の唇で終わってしまう。熱くてそれ以上なんともならない。
 豊臣秀吉と石田三成の出会いで、三成がお茶を出すシーンがある。これは嘘か誠かは分からないが、三段階ほどに分けて。ぬるい目から出した。まずは秀吉が喉が渇いているだろうと思い、飲みやすいぬるさ。次は少し熱い目となる。一杯ではなく、二杯か三杯出したらしい。本当はそんな話など、そもそも最初からなかったのかもしれない。秀吉は、この三成の才能というか、配慮の良さ段取りの良さを見抜いた。それが言いたいだけのエピソードかもしれないが、ぬるいお茶というのも、良いものだ。
 さて、それでぬるいコーヒーだが、それを岸和田は愛でたものの、弊害もある。欠点もあるのだ。それは熱くないので、一気に飲めてしまうため、あっという間になくなってしまうことだった。
 
   了
 

 


2015年12月3日

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