小説 川崎サイト

 

ストレス派哲学


 古田はモバイルパソコンを買い換えてから、スピードが速くなり、快適になった。今までもたついていた処理、次の画面がなかなか出なかったり、他のアプリに切り替えても持ち上がらないし、アイコンをクリックしても反応がないので、何度も何度も押すと、複数のものが何枚も起ち上がったりで、頭ののろい妖怪が住んでいるのではないかと思えるほど苛立った。反応が遅いだけのことなのだが、それがなくなると、ストレスが消えた。しかし、やっていることは同じなので、新たな展開が生まれるわけではない。
 しかし、その気持ちよさを体験した古田は、世の多くの行為にはストレスがつきまとうことを改めて感じる。すんなり行かないとストレスになる。何かに抵抗されているようなもので、邪魔者がいる。これを取り除けばスラスラ進める。パソコンならサクサクだ。
 ここから古田哲学が始まる。そんな哲学が存在しているわけではない。古田が勝手に言い出した哲学だ。古田が思いついたのだから、古田哲学。それだけのことだが、これは人には言えない。当然だろう。しかし自分の中では古田哲学という言葉があり、これは日本語変換ソフトにも辞書登録し、一つの言葉として変換される。言葉として存在しているので、古田と哲学が区切られておらず。ひとかたまりだ。
 ストレスなく、スラスラと行く。そこに殆どのことが含まれているのではないか。
 だから人類はこのストレスとの戦いで、それを征服するのが目的。しかし逆にストレスを取り除くと周辺部にストレスが発生する。ストレスを減らすためにストレスを増やしているようなものだ。増えたストレス箇所を、またストレスなきようストレス抜きをする。すると、またその処理のための、色々な関係でストレスが発生する。自分に発生しなくても、人に発生する。
 欲は欲を呼ぶようなものだが、古田哲学は実際には実学で、ストレス回避法なのだ。これは、ストレスは避けられないものとして認識し、軽減させるか、うまく交わすかで対処する。その方法だ。
 しかし、人には死の本能とでも言うようなものがあり、暴挙に出たがることがある。よりストレスがきついところにわざわざ飛び込む快感もあるのだ。
 古田はこの問題を解き明かしていない。ここはおそらく生成の秘密がある。そして、妙な儀式として、蕩尽してしまうというような。破壊と創造の神のような両面性がある。
 そこで古田が考えたのは、もう哲学ではないが、ダミーのストレスを作ることだ。ストレスがないと、やはりやる気が起こらない。
 このダミーのストレスは燃料のようなもので、これを燃やすことで、他の場所でのエネルギーとして使う。
 ダミーのストレスなので、大きな影響を与えるようなものではなく、どうでもいいものを生け贄にする。
 ストレスがないというのは逆におかしい。ストレスがなくなれば、今度はストレスがないことがストレスになりかねない。
 この古田哲学は古代ギリシャ時代、色々な哲学者がわんさと沸き出していた時代の、その他雑多の中の一つに近い。
 ただ、役立たない話ではなく、ストレスを減らすには、それなりに地味に整備をしたり、地味な配慮などをすることだろう。ただ、この行為がストレスになるので、困ったものだ。
 
   了





 


2015年12月21日

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