小説 川崎サイト

 

正月という僧侶


 正月という僧侶がいる。これは滅多に付けられない名だが、小坊主の頃から目出度い子供で、大人になっても目出度いままだった。顔が目出度いだけではなく、雰囲気が目出度い。
 寺参りの人も、ご本尊よりもこの正月を見ている方が有り難かったりする。目出度いのだ。目の正月というのがあるが、それに近い。珍しいものを見て、目が喜ぶ。当然気分もよくなる。
 しかし、この正月、目立った顔立ちではない。ただ、お盆のような月顔で、仏顔とは少し違う。太陽は直接見るのはきついが、月は見られる。その意味ではないが、いくら見ていても、見続けられるような顔なのだ。これは眩しくないから見られると言うことではなく、じろじろ見つめても大丈夫なような人柄のためだ。
 人の顔など黙ってじっくりと見つめることはまずできない。寝顔なら別で、また相手が気付かないのならいいが、この正月と目が合っても、不思議と何ともない。人と目を合わせて話すのが苦手な人でも、この正月の目なら見られる。実に不思議な坊さんだ。
 ある高僧は月光菩薩の再来ではないかと言ったが、これはただの語呂だろう。普通の人なら月光菩薩も弥勒菩薩も、顔の違いなど分からない。それ以前に、そんな顔なのかどうかも分からないし、また人ではないかもしれない。
 この正月は満月のように円満な人柄なのだが、その裏側は分からない。これを怖がる人が中にいる。月は地球に一方しか顔を見せていない。裏側は誰も知らなかったことがある。そこに宇宙人の基地があるとか噂されていたが、それに近いものが正月にもある。
 その正月も年を取り、まん丸い顔も上から押しつけられたように平べったくなり、縦より横の方が広くなった。それに歯が抜けたのか、あごが細くなった。当然しわも増え、更に肌も老化し、クレーターやクレバスができてしまった。
 もうその頃には月のイメージはなく、満月顔の正月も、欠けだしたようだ。
 目出度い人だけに、長生きしたが、結構早い時期にぼけてしまった。そこから先は更に人に愛されるようになったとか。
 
   了

 

 


2016年1月9日

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