小説 川崎サイト

 

きっかけ


「きっかけですなあ」
「きっかけ」
「きっかけさえあれば、あとは自動的に動くのですが、最初のきっかけがないと、やる気があっても身体が動かない」
「やる気があるのに?」
「まあ、やらないといけないことなら、なおさらですが、好きなことでも、最初のきっかけがないと、なかなか手が出ません」
「あ、はい」
「いやなことでもやり出すと、そのモードになります」
「嫌々モードですか」
「いや、そうじゃなく、そのペースになります。始めるとすんなりと動き出します。慣れないことだと、すぐに躓き、それでやる気が失せることもありますが、まあ、全く初めてのことは滅多にないし、また初めてのことなら好奇心で進めます」
「何かのマニュアルですか」
「いや、マニュアル以前の、その手前の、最初の一歩です。最初の一手です。これを踏み込み、または差すと、あとはそのモードに乗りますから、意外と簡単に進むのです」
「はあ」
「普段やっていることなら、きっかけなどいりません。ご飯を食べるとき、箸を手にするのは最初の一手ですが、躊躇しないでしょ。毎日二回か三回、箸を使っているからです。箸の使い方など考えないでしょ。ただし、指が痛いとか、腕が痛い、肩が痛いとき、箸でものを挟む動作でも痛くなり、このときは考えますが。普段は考えない」
「えーと、どういう話でしょうか」
「つまらん話ですよ。いつもやっていることと違うことをするとき、第一歩、最初の一手が出ない。出せば出せるのに、出ない。これについて考えていたのです」
「ああ、そうですか」
「働いていた頃は、朝から仕事です。もうそれで仕事モードです。その時間に起きるのは出社時間に合わせるためですからね。駅への道も、もうそのモードに入っています。だから、ここでは問題はありませんが、その中で、ちょっといやな仕事はためらいましたが、そこはやらないといけませんから、やりました。しかし、誰も見ていないとか、気付いていないようなことなら、後回しですねえ。そのまま一生後回しにできれば幸い。また他の人が代わりにやってくれたりすると有り難い」
「はい」
「ところが毎日が自由時間のような日々では、意外と勤めていた頃よりも用事の件数が増えたのです。会社では同じ動作を繰り返しておればよかったのですよ。ところが日常の用と言いますか、普段のこと、暮らしのことを一人で始めてから、これは量が多い。ジャンルも多彩で、やることはいくらでもある。まあ、しなくてもいいこともありますがね」
「それで」
「それで、暮らしぶりのことはまあ、毎日やっていることならできるのですが、ちょっとした用件が入ると、それをやるのが億劫でねえ」
「用件ですか」
「ああ、暮らしとは関係のないよう用件です。昔の職場の若い者が、私が作成したマニュアルを貸してくれと言ってきたのですよ」
「あることですねえ」
「このマニュアルは私が丹精込めて作ったものでしてね。百科事典のようなものですよ。虎の巻でもある。すべての知識、知恵、段取り、長所と欠点、時と場、などが書かれています」
「じゃ、貸してあげたら」
「当然、貸しますよ。しかしその書類やノートを仕舞い込んでおりましてね。それを何処にやったのか、忘れたのですよ。思い当たる場所はあるのですが、物入れの奥でしてね。使わなくなった家具がその前にあったり、段ボールがあったりで、それらをのけないと出てこない。しかし、そこだったかどうかも曖昧で、その候補は三カ所ほどです。さっと手渡すのは快感なんですが、探すのが面倒でしてねえ。これは毎日繰り返している日常事じゃないので、頭を切り換えないだめなんです。そのため、押し入れや書庫やロッカーの奥、天井近くにある袋戸棚の奥、これは踏み台がいります。脚立がね。この脚立も物置の奥に突っ込んである。こういうのが面倒でねえ。ある決心がいる。後輩が喜ぶし、私も自慢したい。だから、マニュアル類を貸してあげたい。しかし、身体がなかなか動かないのですよ」
「簡単なことでしょ」
「そうです。障害物が多くて、手が出せない話じゃない。しかし、普段とは違うことをするのが億劫でねえ」
「非常に簡単なことですよ。ちょっと手間がかかる程度でしょ」
「さて、それをいつするかなんです。その行為を挟まないといけません」
「五分もかからないのじゃないですか」
「最短、そうです。思っていたところにあればね」
「はい」
「こうして話している間にできることです。後輩は家まで取りに来てくれます。楽な話です」
「そのマニュアル、もしかして」
「極秘じゃありませんし、危ないことも書いていません。普通の仕事マニュアルです」
「はい」
「実はですねえ。そのマニュアルの中に、今の状況に似たことも書いたのですよ。飛び込み仕事のこなし方とか、年に二三回しかやらない作業での始め方とか」
「今回も、それに当てはまるんじゃないですか」
「そうなんです」
「そこに解決方法が書かれているのでしょ」
「書かれていると言うより、私が書いたのです。だから、覚えていますよ」
「じゃ、解決するでしょ」
「今、しました」
「え」
「だから、その解決方法は、人に話すことです」
「はい、聞きましたが、特に助言はしませんでしたよ」
「これがきっかけになるのです。このきっかけのために、あなたに長々とお話ししたようなものです。もうこれで、マニュアルを探す用件を始められるでしょう」
「はあ」
「長々と有り難うございました」
「いえいえ」
 
   了

 

 


2016年1月12日

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