小説 川崎サイト

 

黒い落下物


 寒くなってしばらくした頃、長田は冬のズボンを買った。厚手で暖かい。もっと早く買おうと思ったのだが迷った。それは色目だ。長田は同じズボンをずっと履きっぱなしで、洗濯も滅多にしない。替えズボンはあるのだが、一度履いたズボンを変えるのがいやなのだ。これは何かよく分からない癖だが、慣れた感触がいいのだろう。
 長く履き続けることを考慮すれば、汚れが目立たない色目が好ましいのだが、それでは地味すぎる。それで明るい茶色。これは肌色に近い。ただ、人の肌色ではなく、絵に描いたときの肌色だろう。そちらの方が肌の色に近く見えるためだ。
 履くと暖かいので、すっかり気に入り、座ったときなど膝に手を当て、感触を楽しんだりした。
 これも一週間ほど経つと、もうズボンのことなど忘れるのだが、自転車で散歩中、いつもと違うコース取りをした。これは同じ道なのだが、右端か左端の違いがある。当然自転車なので左端を走るのが筋だが、次の信号で右の筋へ出たい。そのため右端を走った方が効率がいいので、右へ寄った。いつもの道なので大した違いはない。風景も殆ど同じ。しかし右側にある銀行が大きく見える。そばで見ると、こんな壁で、こんなドアだったのかと改めて分かるほど。道の端と端とではこれだけ差がある。
 そして銀行の角で信号が変わるのを待つことにした。いつもは左側で待つのだが、その日は右側だ。左側なら毎日止まっている。滅多に信号が青になるタイミングで差し掛からない。変化といえば変化。信号を渡り、右側へ行きたいのは煙草が切れたためだ。
 直進すれば家。だから煙草屋は寄り道になるが、それで遠回りになるわけではない。そこに珍しく手渡しの煙草屋がある。自転車に乗ったまま買える。宝くじを売っている店なので、それで元気がいいのだろう。
 そして信号が変わったので、出ようとしたとき、黒いものが降ってきた。一寸強い風が吹いたためだろうか。目の錯覚ではない。見上げると街路樹や信号や電柱がある。何処から落ちてきたのか分からないが、あっという間にズボンに真っ黒な塊が二つ付いた。落ちてきた黒いものは一つや二つではない、大粒の黒い雹のように降ってきたのだ。右膝にその二つが落ちたの右足を少し曲げていたためだろう。太ももが飛び出していたので、そこに落ちた。
 しかし信号が変わったので、急いで渡り、煙草屋までの歩道で黒いものに指を当てた。指の先が真っ黒になったわけではなく、水彩絵の具の黒に近い。最初は上にある何かの器具から油が落ちてきたのではないかと心配していたが、そうではないようだ。すぐにでも拭き取りたいのだが、もう少し様子を見ることにした。
 爪で弾くと、ぷっと一部が飛んだ。爪を見ると黒いが、こすると薄くなった。ズボンの黒はそのままだ。下手に触ると、その黒が拡がるかもしれない。
 長田は急いで煙草を買い、すぐに戻って洗面所でトイレ洗いの紙ペーパーを取り出し、拭き取ることにした。どうも鳥の糞に近い。黒いからカラスの糞だと決めつけるわけにはいかない。見知らぬ鳥かもしれないし、また病気か下痢気味の鳥かもしれない。
 トイレクリーナーのような紙には少しだけ水分が含まれている。しかし長く使っていなかったので、封は切っていないが乾燥しているようなので、水を含めて拭き取った。やはり水彩絵の具と同じで、水で薄くなったが、ズボンの色がそこだけ濡れてしまった。
 そのあと、部屋着に着替え、次に外に出るとき、そのズボンを見ると、何の痕跡も残っていない。
 黒い染み付きズボンを今後も履き続けることを覚悟していただけに、長田は喜んだ。
 しかし、この真っ黒な降り物は何だったのか、今でも分からない。
 
   了

 

 


2016年2月5日

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